復活の出来事は実に不思議であるが、弟子たちを覚醒させ、確信を強める事はあっても、打ち消すような事には決して至らなかった。復活の主はティベリアス湖畔(ガリラヤ地方)にご自身を現された。弟子たちとの思い入れの深い出会いの場所、馴染みの場所であり、日常そのものである。岸辺に立ち、弟子たちに親しく問いかけるイエス。彼らはイエスだと気付かない。復活の主は可視的な姿に限定されず、以前よりもさらに恵みと自由な姿を通して、彼らの日常と共にあることを伝えようとされた。▼「舟の右側に網を打て・・」聖書では<右>は神の側を示す。反対は人間の側だ。われらは自分の最良と思う方法で生命の糧を得ようとするが、時にそれは不漁に終わる。神の指し示す言葉に従ってこそ最善があり、希望に繋がる出口を見出す。われらはこの世を歩む途上で、いつも新しい指示と、認識を必要とする。それは常に新たなる目に見えない敵に遭遇したり、今までになかった困難に直面したり、これまで考えた事のなかった問いに直面するからだ。だが、たとえ未知の経験、われらを震撼させるような恐れに囲まれたとしても、復活の主イエスが共におられ、われらのために先回りして全てを整えておられる。復活のイエスの姿は、われらの判断では気付かぬままかも知れない。しかし、常に神の側に立ち、自らの無力を認め、日常の様々な出来事を通して問われている<声>に耳を傾けて生きるならば、「舟の右側に網を打ちなさい」と弟子たちに語られたように、われらにもその時なすべきことを示され、必要を備えられる復活のイエスに出会うのだ。主は今日も生きておられる。2020.5.3