『主イエスの招き』マルコによる福音書2章13−17節

あるクリスチャンが強盗事件に巻き込まれ、被害者として法廷の証言台に立った。そこで被告人の罪状と共に処罰に関する内容が告げられ、意見を求められた。生活苦による犯行で加害者本人も悔いている様子。証言者は寛大にも情状酌量の意を示そうとして思わず「わたしも<罪人>ですから・・・」と言ってしまった。「え!?」表情を変えた裁判官。法廷の雰囲気が一瞬にして変わる。即座に気付いて「ああ、私はクリスチャンで宗教的な意味です・・」と弁明し、その場が和らいだそうである。▼当時、不正な利を貪る者として疑惑の渦中にあったユダヤの徴税人。レビもその一人であった。彼が不正に関わっていたかは不明であるが、レビはイエスの招きに応じ、新しい人生を歩み始める。レビは自分も「罪人」と自覚していたのであろうか。ギリシア名では「マタイ」。後に12弟子の一人に名を連ね、一説には「マタイよる福音書」原本の著者として、キリストの福音記者をとなったと伝えられる。彼にとってイエスの招きは、自分を救い、人生を全く新しく変える転機となったのだ。主イエスは言う。「健康な人に医者はいらない。わたしが来たのは正しい者を招くためではなく、罪人を招くためである」と。一方、自らを「正しい者」との自認していた当時の宗教的な指導者や学者たち。やがて彼らは自分たちの主張する正しさをもって救い主である罪のない主イエスを十字架につけることになる。自分は本来、人を裁けるような正しい人間なのではない、という神の前で抱く宗教的な自覚。主イエスの招きは「自分の正しさ」ではなく、自らの罪を知り、赦しを求めている人にこそ救いをもたらす恵みとなる。2020.7.19