『安息日と主イエス』マルコによる福音書2章23−28節

週に一度の休日、由来は聖書にある。「安息日(休日)」は人間のために定められた。創世記によれば、神は創造の業を離れて第7の日に安息され、この日を祝福された。第6の日に人間が造られたとすれば、最初に迎える日は「安息日」である。「安息日」にわれらは神が神であることを知り、神はわれら被造物をありのまま受け入れ祝福される、そこでわれらは生きる意義と喜びを見出し、週の歩みをはじめる。モルトマンは「安息日は神がいる日」と表現しているJモルトマン組織神学論叢2「1創造の完成Ⅵ「安息日」―創造の祝日p403405沖野政弘訳」新教出版社>子とって普段「親」を感じる日は、親が仕事をしている時ではない。家事などを中止して親がその作業から離れて休み、子と真正面から向き合う時にこそ、その存在をありのまま感じる。主イエスは「人の子は安息日の主」と言われた。主が復活された日曜日は「主の日」とされ、われらは安息日の主と出会う。この日は、「主イエスがいる日」なのだ。主は常に共におられるが、この日はその恵みの事実をありのまま知るのである。主イエスが真正面で向き合われ、われらのありのままを受け入れ祝福される。自らの力で心身の疲れを癒そうとする限り、本当の安らぎを得る事はない。そこでは自分自身が安息をもたらす主人になっているからだ。「疲れた者、重荷を負っている者は、誰でもわたしのもとに来なさい」と招かれる主イエスのもとでこそ、われらを苦しめる一切の重荷、病、悲しみ、中傷、罪の束縛から解き放たれていく恵みを知り、生きる望みと力を得るのだ。(2020.8.2)