『すれ違っていましたね』:マルコによる福音書8章11−26節

「すれ違う」・・「互いに触れ合うほど近くを通って、それぞれ反対の方向へ行くこと」「出会うはずのところを出会わないでしまうこと」(広辞苑より)イエスとファリサイ派、イエスと弟子たちの間にある「すれ違い」。前者は目の前に待望のメシアがいても、神の御心とは反対に彼を殺そうと企てる。弟子たちはイエスの教えが理解できず、対話にも齟齬がある。その時はイエスの言葉の真意が見えず、悟れなかったのだ。この出来事の直後、盲人がイエスに何度も触れられることにより、段階を追ってはっきりと開眼する記事がある。弟子たちも段階を追って心の目が開かれたのだろうか。イエスの十字架と復活の出来事を経たのち、ようやく悟るようになるのだ。ガリラヤの日常でイエスと共に歩んだ道のり。後になってそれを思い起こす度、あの時も、この時も、肌が触れるほど近くにいたのに、心は遠く鈍感だった。すれ違っていたと知る。確かなことは、たとえ当時は無理解であっても、弟子として失格であっても、<イエスは彼らと共にいた>という事実である。われらもまた、恐れにとわられる時、将来に不安を覚える時は、きっとすれ違っているだけなのだろう。出会おう思えばといつでも出会えるほど真近にイエスはおられる。目には見えなくても、常に共におられる。どのような状況にあっても必ず希望は存在するのだと、今日もイエスはわれらと出会おうと共に歩み続けておられる。だからこそ、すれ違うままで終わらず、神の愛に出会うことができるのだ。(2021.3.21)