『信仰が芽生える時』: マルコによる福音書9章14−32節

春到来。新しい芽が生え出る季節、希望の蕾が膨らむ。息子の深刻な症状に苦しむ父親がイエスに希望を抱く。「何か、おできになるなら助けてほしい」と。「何か、ですと?信じる者は一切が可能だ」とイエスが父親に問う。即座に父親は「信じます。<信仰のない私>を助けてください」と叫ぶ。「信じる」と言うのに「信仰がない」私を助けて・・、という矛盾した願い。父親はイエスに全幅の信頼を寄せたと同時に自己の不信仰を意識したのだ。自らの<不信仰を自覚する時>こそ、神が期待しておられる<信仰が芽生える時>である。信仰は自らの側に生ずる力ではなく、神から賜る恩恵である。われらは自分に力はないという自覚にある時、必死に神に信頼せずにはおれない。だが、そこにこそ希望が存在するのだ。かつては床が抜け、水道管が破裂し、十字架塔の屋根が剥がれ、教会堂は倒されそうな状況だったこの教会。ここに登場する息子の症状ではないが事態は深刻であった。自己資金では倉庫しか建たない経済力。けれども自分たちには力がないからこそ芽生えた信仰。神を礼拝し、信頼し続ける歩み。今月、献堂から13年目にして新会堂建築費を滞りなく完済に至った。神は一切の必要を満たしてくださり、主は今も生きておられることをお示しくださっている。「祈り」は、「信仰を神に求めること」と同義的である。われらは、キリスト・イエスにおいて示された神の愛から引き離されず、今日も主を礼拝しする群れとして歩み続けることを許されている。感謝。(2021.4.18)