『偉い人は「えらい」』: マルコによる福音書9章33−37節

「誰が一番偉いか?」と議論する弟子達。イエスは「いちばん先(当時「第一の者」とは行政の長や皇帝をも意味した)になりたい者は、仕える者(召使・奴隷の意味)になれ」と言われる。偉いのは、他人を支配して私服を肥やしたり、威張り腐ったりするような者ではない。たいへんで辛いことも「えらい」と言うが、楽ではなく苦労する立場こそイエスの生き方に近い。他人よりも大きく優れているとか、自分の能力や地位によって一喜一憂する生き方ではなく、目の前にある困難や辛く面倒なことを受容する態度にこそ「偉大さ」がある。イエスの生涯は人の上に立って人を見下す者ではなく、下に立って苦しむ道を進み行かれる。彼の行く手には受け入れ難い試練の連続であった。無理解な弟子たちを受け入れ続けて共に歩み、ご自身で選んだ者を見限らず愛し続けられた。愛するのは「えらい」事であり、辛くて痛い。だが、彼は偏見なく出会う者をどんな小さな者でも受け入れて愛し、不当な裁判も侮辱もすべて十字架上で引き受け死なれた。しかし、神は彼を復活させ、今も生きてわれらと共に歩んでおられる。どんな小さき者であっても偏見も差別もなく、ありのまま受け入れ、共に歩んでくださるのだ。このお方にあってわれらも「えらい」ことに価値を見出す。(2021.4.25)