『最後まで耐え忍ぶ者は救われる』:マルコによる福音書13章1−13節

望まないことが避け難く起こる苦難の時代をわれらは生きている。主イエスは世で起こる苦難、苦痛から目をそらさない。むしろ惑わし、戦争、災害、飢餓、殺戮・・・。これらは「産みの苦しみのはじまり」(8節)という。ここでは何か新しいものが生まれる過程、陣痛のような苦しみを連想するが、苦痛が突然襲ってくる比喩であり、単に「甚だしい苦痛」の意味だという(田川)。苦痛は何も生み出さない。苦痛は苦痛でしかない。確かなことは、「はじまり」があれば、「終わり」があるということ。これ以上ないという「苦痛」も、やがては必ず「過ぎ去る」ということだ。日頃から依存し、頼みにしていたものが根底から崩されるとき、われらは狼狽し、望みを完全に失うかのように思う。人が苦痛を覚える場所や程度は人によって異なるだろう。もし、苦痛にあって出口が見出されないとするならば、自分の苦痛が誰にも理解されないことだ。しかし人間の最も辛く、一番苦しいところ、まさにそこに神がおられる。一人で耐えるのではない、主イエスが一緒に呻き、苦しみのあるところに共にいてくださるのだ。「世の終わり」と訳されているギリシャ語「syn-tereia」は「一緒に仕上げる」という意味となる。われらの信頼する神は、「世の終わり」まで、最後まで一緒にいてくださる方である。そこにこそ確かな望みがあるのではないか。苦しみは避けられないが、あなたの苦しみを知られるお方が傍にいるのだ。(2021.9.26(日))