「世の終焉」を煽る思想はいつの時代にも存在する。新興宗教など様々な事象や兆候を並べ立て不安や恐怖で人を煽る者たちがいる。古代ギリシヤ語の文法用語での「アオリスト」は時制をあらわすアスペストの一種だが、完了、継続、反復との状態とは無関係に全体でひとつの動作をあらわし、「境界のない」という意味だそうである。一度でも人を恐怖で煽ると、その影響は継続して相手に不安を与え続けることがある。その意味にもかけて「人を煽ってくる者」を造語であるが、「あおりスト(煽りスト)」と個人的に呼んでいる。車道で一方的、強制的に煽ってくる暴走車等も該当するだろう。彼らは相手との対話を拒否し、考えさせる暇も奪う。イエスは「あおりスト」ではない、彼は共におられる救い主(キリスト)である。彼はわれらを脅し煽るのではない。むしろ兆候に左右される生き方ではなく、自分自身でよく気をつけよと、自ら思考させようと喚起する(23節)。一人で抱え込まずに、不安なら神に祈り、誰かに打ち打ち明けるのだ。確かに天体が消滅するような終焉を否定されない。しかし、主イエスは「わたしの言葉は滅びない(過ぎ去ることはない)」と言われる。世界がどのように様変わりしようと、たとえ天変地異が起ころうとも主イエスは共におられる。不幸や最悪と思える状況が重なると、人は思考することをやめたがる。そして不安を解消するために根拠のない情報までも鵜呑みにしてしまうことがある。主イエス・キリストは、史上最悪の事態に目を向けながらも、決して希望を失わない命へとわれらを招かれる。終わる時は終わる。兆候が問題なのではない。花はしぼみ、草は枯れる。だが主の言葉は決して過ぎ去らず、滅びない。そこでは終わりにあっても、福音のはじまり(1:1)がある。(2021.10.3)