『過越の食事』マルコによる福音書14章10−26節

 

「過越の食事」とはユダヤでは新年行事であり、種無しパンを食べる伝統がある。酵母が取り除かれる固いパンは、かつてエジプトで奴隷であった時の苦難を想起するもので「苦しみのパン」と呼ばれた。また、彼らが救われる前夜、家の門に小羊の血が塗られたところでは、国中を襲った災いが過越したことを記念し、ぶどうの杯が交わされた。プロテスタントのキリスト教会では、主イエス・キリストが苦しみのパンとしてご自身の体を分かち合われたこと、世の罪を取り除く神の小羊として十字架で血を流されたことを記念し、ぶどうの杯を交わす礼典(主の晩餐式)として受け継いでいる。「取って、食べよ。これはわたしの体である」と主は今もご自身のからだを差し出される。この度、キリストの体を形づくる肢体として、主の愛される尊い一人が新たに群れに加えられた。愛する家族を失い、ご自身も多くの疾患を抱えておられる中、キリストと出会われた経緯を分かち合われた。それまでの壮絶なる苦悩の日々、それは彼における「苦しみのパン」である。そのパンが、キリストの体である教会で分かち合われた。「取って、食べよ」と。さらにまた、教会員ひとり一人においても、個別な痛みや悲しみ、苦しみのパンがある。けれども、それらが神の招きによってキリストの体にあずかり、ここで、ひとつの体とされる。ひとつの部分が痛めば全体が痛む。また、一人の喜びは全体の喜びとなる。ここで、みな、キリストとひとつに結ばれるのである。このご時世、いつ如何なることが起こるか先の事はわからない。だが、すべてに先立って主イエス・キリストがこれ以上ない苦杯を飲み干され、どのような苦難にも共にいてくださる。主とひとつに結ばれる者は復活という希望が備えられている。ここに真の過越がある。(2021.10.31(日))