主イエスの捕縛の場面。彼は「犯罪者とされるため」に捕らえられる。既に裏で金銭取引は終了。暗がりの中、ユダの合図で主イエスが捕縛される。師に対する愛と尊敬の挨拶が、裏切りの合図となるとは酷な話だ。しかし裏切ったのはユダだけではない。他の弟子たちも皆、蜘蛛の子を散らすようにわが身に危険が及ぶとその場を離れ、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまうのだった。ガリラヤでは好意的だった「群衆」も、今では手のひらを返したように剣や棒を持ってイエスのもとに来ている。その後に登場するひとりの若者は著者自身(マルコ)を登場させているとも言われるが、彼も捕縛されそうになると恥も外聞もなく身に纏っていた亜麻布を脱ぎ捨て逃亡する。読者を含めここにいるすべての者が、主イエスを見捨ててしまう者なのだ。待降節(アドヴェント)に入った。救い主誕生の夜、身重のマリアとヨセフの宿る居場所はなく、家畜小屋をあてがわれる。主イエスは誕生の時からベッドもなく、飼い葉桶に寝かされる。当初から見捨てられる側におられ、最後まで十字架で見捨てられた者として死なれる。ここに神の愛が示された。他者を愛する時は、己が見捨てられている。主イエスは神の身分を捨てて世に降られ、苦難のしもべ、貧しい者となられた。われらが富む者とされるために(Ⅱコリ8:9)。たとえ裏切ってしまうようなわれらをも受け入れて赦し、愛するために。主イエス・キリストにおいて示された神の愛により、われらは神に見捨てられぬ者とされている。(2021.11.28)