『十字架に引き渡される主イエス』マルコによる福音書15章1—15節

「#十字架につけろ」と炎上する群衆。当時のインフルエンサー、祭司長たちの扇動による趨勢は代官ピラトの判断を引き潮のように呑み込んでゆく。いったいどんな悪事を働いたというのか?ピラトは死刑に価する罪をイエスに見出せないにもかかわらず群衆に迎合してしまう。昔も今も大衆の支持する動向は時に無責任となり、真理よりも関係性やトレンドが優先され得る。その時、集団や全体主義は「個人」に対して無慈悲な傾向へと加速する。「わたし」という個人の幸福度を高める要素は、世の中の動向や周囲の評価からは得られない・・。めまぐるしく変わりゆく世にあって、常に変わる事なくわれらを幸福へと招くものは何か?バラバという罪に問われている者が赦され自由の身となり、イエスという罪なき者が罪に定められた。無言のまま縛られている主イエスの姿が今もわれらに問いかける。なぜ彼が十字架に引き渡されねばならないのか?それを他ならぬ自分自身に問い、主イエスの十字架を「わたし」と結びつける事を通して神は、われら一人ひとりを愛と救いに導かれる。わが身の幸はみな、主イエス・キリストにあるという真理を知るために。(2022.1.23(日))

2022.1.23(日)講壇花 by ISHIMARU