『あなたを救うのは誰か』ローマの信徒への手紙7章24−25a節

「善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:18、7:24-25a)

 

「善への認識がありながら実行不能」というジレンマ。使徒パウロの葛藤は自分自身を偽ることない内面の告白だ。自らの力で救済できない現実。彼は主イエスの十字架の出来事と接点を持ち続け、救いを神の恵みにのみ見いだす。明治の政治家田中正造は、わが国初の公害問題で人権と環境を守るために命をかけて財閥や政府と闘った人物である。臨終時の遺品は携帯していた手帳と聖書と石ころ。彼はキリスト教徒ではなかったが「聖書は読むにあらず、行うものなればなり」と言った。日記の最後には「・・・懺悔洗礼ヲ要ス」とある。裁判を背景に渦巻く人間のエゴイズムや罪。利権や保身が跋扈し、真実が等閑される。だが時に相手の中に見いだす害が、他ならぬ自身の内にも巣食うっているという罪を自覚したのだろうか。彼の絶筆は人間の本性を見た者が告白し得る誠実さに通じる。イエス・キリストの十字架はわれらの罪を赦して救う贖い。主イエスは今も十字架に磔にされたのままの姿でわれらを救いに招く。(2022.10.2)

2022/10/2(日)礼拝講壇生花 by YOSHIKO