『ないものはない』:使徒言行録3章1–10節(2023/1/22)

金銀を求める生まれつき足の不自由な物乞いに、「ないものはない」と告げるペトロ。しかし、「あるものをあげよう」と差し出されたのは主イエスの「名」であった。その名によってこの人は自らの足で立ち、歩くようになる(使徒3:1-10)。彼にとって真に必要なものが与えられたのだ。「ないものはない」。「無い」のでは仕方ない。という諦めを促す否定の言葉も、「無い」もの「否定」と見れば、「すべてある」の意味になる。「偉大なことを成すため強さを神に求めたが、謙遜を学ぶよう弱さを授かった。健康を求めたのに、より良きことをするよう病気を授かった。幸せになるよう富を求めたが、知恵を使うよう貧困を授かった・・・求めたものは何一つ与えられなかったが、祈りはすべて聞き届けられた。わたしは誰よりも豊かに祝福されたのだ」(病者の祈り:作者不詳)この詩では、望んだものが与えられていないように思える。しかし、神に求めた一切のものを得ていた、との気付きがある。祈りの本質は、主の御名を呼ぶ事。かつて「わたしは在る」とその御名を告げた神は、常に共におられたお方であり、昨日も今日も、未来にも変わらず共におられる(存在する)お方である。そしてイエスの名は「主は救い」という意味である。「主を呼び求める者は皆、救われる」という約束は今もこれからも永遠に、真実であり続ける。(2023.1.22)

 


2023/1/22(日)礼拝講壇生花 by YOSHIKO