「キリストの体として」コロサイの信徒への手紙3章12-17節

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」コロサイの信徒への手紙3章12-17節                                                       

人間の「体」はどんな小さな器官であっても不必要なものはなない。体の各器官は、すべてが「生きる」という目的のために複雑かつ絶妙に機能しており、比較しなくても同じ「ひとつの体」だ。各部分は優劣なく命が「生きるため」にたえず補い合っている。教会は集められる一人ひとりが「キリストの体」を具現する存在として、神から必要とされ、愛されている事への自覚に招かれる。その目的は、神の恵みの力によってキリストに倣う愛を身に着ける事にある。互いの働きや違いに一喜一憂する事が目的ではない。老若男女だれもが必要とされており、資格や健康の有無が問われるのでもなく、各自の存在自体が既に地の塩、世の光とされている。それぞれの経験、嬉しさも悲しみも、辛さも痛みもすべてが意味を有し、キリストが歩まれたような隣人愛の実践のために用いられる。一切は無益とならず、「キリストの体」として生かされている。(2023.5.7) ー教会組織40周年ー

2023.5.7(日)礼拝講壇生花 by ISHIMARU