長崎で被曝し、神父となった小崎登明さん(1926-2021)が生前、常に語っていた言葉がある。「他人の痛みをわかる人間になることが平和の原点だ」。主イエス・キリストの平和、その誠実さは、人の痛みや労苦を知ろうとされる歩みに現れている。湖畔にて、主イエスの面前には群衆が押し寄せていた。だが彼が目を留めていたのは2艘の舟と網を洗う漁師の姿。徹夜の努力も徒労に終わり、舟には捕獲した魚が一匹もない。彼らの様子を見ておられたイエスが近づいてペトロの舟に乗られ、群衆に神の御言葉を語られた。ペトロは一番近くで聞きながらも、おそらく全く耳に入らなかった可能性がある。生活がかかっているのに不漁だった現実は、身も心もいっそう疲弊へと向かわせる。明日からどうなる?きっと自分の事で頭が一杯だったと思う。イエスが言う「沖へ漕ぎ出し網を降ろしなさい」と。彼が答える。「夜通し働いでダメでした。でも<お言葉>ですからやってみましょう」と。一見、信仰的ともとれるが、ペトロの言葉は嫌味ともとれる。後者の場合、魚の漁れる時間帯でないのだからイエスの言葉は常識的に通じないという現実を証明して見せよう、そんな動機だ。しかし結果は、舟が沈みそうになるくらいの大漁となる。彼が驚愕のあまり恐ろしくなって罪を自覚したのは、不純な思いで従ったからとも読める。ペトロはイエスを「先生」から「主よ」と呼んで、主の弟子となった。自分の都合だけを考える限り、神の望まれる道に踏み出すことはできない。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(年間聖句)と、神の御言葉はわれらを恵みの沖へと今日も招く。(2024.8.25)