『主イエスによる包摂的な共食』ルカによる福音書9章10-17節

昨年5月、水俣病犠牲者懇談会の途中、環境庁の職員が患者団体代表の発言中にマイクを切った問題が発生した。後に当時の大臣が謝罪する事態となった事は記憶に遠くない。止める事のできない犠牲者の心情、職員側としては職務遂行上の責任。どちらも必死だ。主イエスのもとに集まってきた人々も必死である。日雇い労働で何とか生き延び、その日の食べ物にも事欠く貧しい人々、差別を受け社会での居場所を追われた路上生活者や病人。主イエスは両手を広げ多様な人々を包んでいかれる。日が沈みかけると弟子たちが言う「群衆を解散させてください」と。しかし主イエスは、辛さの中に置かれている人たちの声を途中で切る事はなさらなかった。目の前にいる必死な人たちを放って置けなかったのだ。主イエスのもとでは様々な人たちの居場所が与えられ共に食事が分かち合われた。年代、経済的状況、人種、民族、社会的地位、性別などの区別がなくされるほどすべての人々が受け入れられたのだ。今年度の主題は「キリスト・イエスにおいて一つ〜包摂的共同体を目指して」(ガラテヤ3:28)である。キリストのもとでは、世代やジェンダー、文化、信仰や経験の違いを超えて一つに結ばれ、満ち足りる場所へ招かれる。