
素晴らしい光景、感動的な場面はいつまでも記憶に留めたいと思うもの。ペトロもそうだったかもしれない。イエスの姿が変貌し、服は純白に輝く栄光の姿を目撃したペトロは興奮し、何かを残したいと思ったようだ。だが栄光に包まれたイエスの姿は雲に覆われてしまい、雲の中から声が響く「これに聞け」。と。そこにいたのはもはや輝かしいイエスではなかった。栄光の陰で、イエスはご自身の最期についてモーセとエリヤと話しておられた。弟子たちが聞くべきなのは、栄光に輝く神々しいイエスではなく、苦難を受けるイエスに聞くことなのではないか。彼はあらゆる苦しみの場所におられる。華々しく輝くような姿は隠され、「うめく」ところにご自身を現される。ほんとうに苦しんでいる人はうめいている。うめきは言語化できない、言葉は雲に覆われるように隠されている。それを聞き取ることは難しい。叫びなら聞こえる、泣き声なら見た目にもわかり、聞き取れる。けれども真に悲しみに打ちひしがれている人は、泣けないでいる場合がある。泣いてなんていられないから、笑っていたりする。辛さを心の奥に押し込め、人前では表面に出さず、見た目には気丈に振る舞いっていたりする。でも、隠れたところではうめいている。そのような人の声こそ聞くべきではないか。主イエスに聞く、それは普段は見えないところ、聞こえにくいところ、雲に覆われているように、隠されたところに心を向け、聞こうとする態度にあるのではないか。(2025.5.25)