
「花」という詩がある。「花は自分の美しさに気がつかない 自分の良い香りを知らない どうして 人や虫が喜ぶのかわからない 花は 自然のままに 咲くだけ 香るだけ」(河野進)われらは普段、気付いていない。造り主なる神の目にはどんな花にも優って自分の存在そのものが尊いとされていることを。ルカの記事では期待に応えることができずにいる無理解な弟子も、それを嘆くイエスも、いやしを必要とする父親も、皆ありのままの姿が伝えられている。マルコやマタイにある記事のようにそれぞれのあるべき姿が求められてもいない。ただ人々はイエスのわざを通して「神の偉大さ」に心を打たれる。教会はキリストのからだであり、一人ひとりは神の偉大なわざをあらわすパイプ的存在のように思う。「器」のように自分の所に溜めたり、蓋をしてしまうのではなく、「通路」のように恵みを流し、互いに繋がって全身に血液を送る「管」のような存在だ。「器」のように大きさや優劣で比較されるのでもない。ただ良き知らせの「通路」としてキリストの香りを各自が放ち、神の栄光をそれぞれの存在があらわすのである。通路であれば気張る必要もない、今は理解できなくてもそれが問題なのではない。ありのままでキリストの恵みの橋渡しとなり、神の偉大さ、福音を人々に持ち運ぶのだ。「花は咲くとき頑張らない。ゆるめるだけ」。福音の通路として今日を生きよう。(2025.6.1(日))