
主イエスは、しっかりと顔を上げエルサレムへと進んで行かれる(51節)。一行は旅の途中「サマリア」の村に入ったが、村人はイエスを歓迎しない。歴史的にはユダヤ人とサマリア人との間には対立があったようだ。「村」は「群」と同源(広辞苑)である。一対一であれば問題なく対話できるのに、「群衆」になると人は態度が変わったりする。「群衆心理」の著者ル・ボンによれば、「群衆」は未熟な心理に陥やすく、わかり易い「断言」になびいてしまうという。この村では「エルサレムへ行く者は敵」という単純なフレーズだけで恨みを募らせる思考が浮遊していたようだ。しかしそれはイエスの弟子たちも同質。彼らは自分たちを受け入れない相手に天罰を与えて呪うような単純思考の「群衆」でしかない。主イエスは振り向いて彼らを戒められる。主イエスは村から村へとエルサレムを目指す途上で、群衆の中にいる一人ひとりと出合われ、対話をされた。顔をしっかりと上げて進む先には、十字架が待ち受けている。それは「群衆」から排斥される道だ。罪人を懲らしめずに赦すイエスを「群衆」は呪う。剣を取らず敵と戦わないイエスを弟子たちは見捨てる。しかし、主イエスがしっかりと顔を上げて進まれた道にこそ、人々を罪から救う道につながっていたのだ。エルサレムで起こった主イエスの十字架と復活、昇天の出来事。そこから差別意識や民族同士の争いではなく、キリストにある和解と平和の道、もはや敵も味方もない神の国の福音が全世界へと伝えられたのだ。(2025.7.6(日)