『善いサマリア人〜だれもが抱えるトラウマ(傷)』: ルカによる福音書10章25−37節

ある人が強盗に襲われ、道端に倒れ込んでいた。そこを何人も通り過ぎたが、誰ひとり手を差し伸べなかった。ただ一人、異邦人と蔑まれていたサマリア人だけが立ち止まり、介抱した──これが「グッドサマリタン法」の源となった聖書の物語である。助けたいのに、助けられない。祭司やレビ人にも、彼らなりの事情や正当な理由があったに違いない。だが私たちの日常にも似たことがある。困っている人に声をかけられずに過ぎ去り、後から胸を締めつけられるような思いをすることはないだろうか。人は往々にして「したこと」より「しなかったこと」に苛まれる。その悔いは心の奥に影を落とし、トラウマとして残るのである。この物語に登場する人々は、皆それぞれに傷を抱えている。暴行され瀕死の状態で横たわる人。差別と敵意の視線にさらされ続けてきたサマリア人もまた、心に深い痛みを負っていたのかもしれない。その彼が倒れている人を見て「憐れに思った」と聖書は記す。胸が裂けるような思いで、彼は近寄り、傷を包み、寄り添ったのだ。この姿はやがて十字架のキリストへと重なる。彼こそ、人間の罪と痛みを負い、打たれ、釘打たれ、血を流された方である。その「打たれた傷によって、私たちは癒やされた」(イザヤ53:5)。人は皆、心に傷を抱えて生きている。しかしその傷は、キリストの傷の中で癒しへと変えられていく。そこに希望がある。(2025.9.7)