『忙殺からの救い』: ルカによる福音書10章38−42節(2025.9.28)
「忙殺」〜多くの役割や必要に迫られて多忙を極め、心身が消耗される状態。ルカ10章に登場するマルタがそうであった。彼女は客人を迎える準備に奔走し、妹マリアがイエスの足もとに座って御言葉に聞き入っている姿に苛立ちを覚える。そんな彼女にイエスは名を二度呼ばれた。あたかも本来のマルタ自身を呼び戻すかのように。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(41節)と。ここで使われるギリシア語「ペリスパオー」は「周り(ペリ)を引き抜く(スパオー)」という原語で「四方八方に引きずり回す」という意味。マルタは必要な役割や責任を自ら引き抜き、まさに忙殺されていたのだろう。イエスは言う。しかし「必要なことは一つ」であると。マルタは働きによってではなく、存在そのものが尊ばれていることへ招かれた。多忙であることは充実していることでもあり誇らしくも映る。しかし働くことができない状態ともなればたちまち存在価値を見失う。ゆえに、イエスの招きは救いである。われらもまた、周囲からさまざまな思い、他人の目や責任感、心配や苛立ちを引き抜いてしまい忙殺されることがある。しかしそのただ中でこそ心を澄ませて本当に必要なものを聴き取ることに招かれている。忙しさに引き裂かれる心を束ね直し、本来の自分を取り戻す―その救いは、今もなお、イエスの呼びかけの中にある。(2025.9.28)