『祈りはわたしを整える』: ルカによる福音書11章1−4節

チャーリ・カーク氏の追悼式は7万人以上の人々がスタジアムに集い5時間に及ぶプログラムは礼拝そのものだった。賛美がささげられ、牧師からのメッセージがあり副大統領も信仰の証をしていた。夫を殺害された妻エリカ氏によるスピーチで彼女は、自分がこの出来事を通して神のあわれみと愛に支え守られていることを伝え、最後に会衆に呼びかけていた。「私はあの若者を・・あの若者を赦します・・・。十字架上で、私たちの救い主は『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』とおっしゃいました。キリストはそうしたし、夫もそうするでしょう。夫は信仰も目的も生きる意味のない青年たち、苦しみや憎しみにのまれる青年たちを彼は助けようとしていたのです。だから、私は彼を赦します。憎しみ対する答えは憎しみではなく愛。聖書から知れる答えはただ愛、いつでも愛です。敵への愛、私たちを迫害するものへの愛・・。祈りを選んでください。勇気を選んでください。・・・信仰ある人生を選んでください。そして一番重要なこととして、キリストを選んでください」(2025.9.21追悼式のスピーチより) ルカ福音書11章で、弟子たちはイエスに「祈りを教えてください」と願う。イエスは神を「父よ」と呼びかけ、神の子として整えられる祈りを教えた。祈りは願望実現の手段ではなく、神の御心に自らを整える営みである。「御名が崇められますように」と祈るとき、われらは自己中心の願いから神中心の生き方へと向きを変える。「日ごとの糧を与えてください」と祈るとき、欲望に支配されず、欠乏への不安から解放され、感謝に生きる者へ整えられる。「罪を赦してください」と祈るとき、自分の罪を認めつつ、赦す者へと整えられていく。そして「誘惑に遭わせないでください」と祈るとき、弱さを知りつつも神に信頼する謙遜へと整えられる。祈りは状況を変える前に、まず私たち自身を変える。神に向き合うその静かな営みの中で、私たちは生かされ、導かれ、人生が整えられていくのだ。願いを超えて、御心に生かされること――そこに祈りの本質がある。(2025.10.5(日)