神の愛と救いは、すべての人に向かって開かれている。しかし、それを受け取るか否かは、人間の自由な応答に委ねられており、神はその門を閉ざされる方ではない。神の愛は普遍であってすべての人を包み込む。アテネでパウロは「私たちは神の中に生き、動き、存在する」と異教の詩人の言葉を引用しながら、神が特定の民族や宗教に閉じ込められる方ではなく、万民の神であることを説いた。つまり、すべては神のいのちの中に生かされており、神の愛の外側に生きる人間は一人もいない。キリストの十字架は信じる者だけでなく、神に敵対する者のためにも立てられた(ローマ5:10)のであれば、「私たちの本国は天にある」という言葉は、「神のうちに生きるすべてのいのちの故郷」という普遍的な意味を帯びてくる。神は特定の宗教の神ではなく、すべての人のいのちの源である。この地上の国籍は一時的なものだ。しかし「天の本国」は、宗教や国籍を超え、全人類が帰るべき永遠の故郷である。「私たち」と「そうでない人」。信徒と未信徒、正しい者と間違った者、敵と味方・・・。そんな二元的な線引きが「私たち」の内側には生じる。 しかし、キリスト・イエスにおいてすべての壁は取り払われた。「神のふところ」(詩編90:1)は、私たち全ての最終的な居場所だ。天の本国に属する者として、神の国を示す和解と愛の使者として生きよう。(2025.10.19(日)
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