2025年度主題「キリスト・イエスにあって一つ〜包摂的共同体を目指して
五旬祭(ペンテコステ)は元来、モーセがシナイ山にて神の言葉(十戒)を授かった記念日として祝われたようだ。主イエスの復活から50日目のペンテコステの日。聖霊が降り、集まっていた弟子たちは異なる言語で話し始めた。すると祭りに来ていた多様な言語を話す人たちは、皆それぞれの故郷の言葉で「神の偉大なわざ」を聞いたのであった。「聖書」は、神の言葉としてあらゆる言語に翻訳され続けている。旧新約聖書は756の言語、聖書物語や分冊を含め、手話言語も含めると3756言語に達した。(世界ウィクリフ同盟2024.9)神の偉大なわざは今も世界中の多様な人々にそれぞれの国、故郷の言葉で届けられているのだ。かつて高みを目指したバベルの塔の建設は頓挫し、互いに言葉が通じなくなった。ペンテコステの聖霊は、高い所でなく低き所に降った。強さではなく、無力で弱さに打ちひしがれた人々の上に神の愛と恵みが注がれた。そうして神に呼び集められた者たちをひとつに結ぶ教会が誕生したのだ。教会は強さで通じ合うのではなく、むしろ弱さで連帯する。川は低いところに流れて行く。どの川も争うことなく、低みに向かい大海に通じてひとつにされる。われらも多様な背景、異なる個性を持っているがそれぞれがへりくだって低みに向かう時、偉大な神のわざを証しする恵みの通路となるのだ。そこではあらゆる人々と通じ合う道となる。「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)2025.6.8(日)
「花」という詩がある。「花は自分の美しさに気がつかない 自分の良い香りを知らない どうして 人や虫が喜ぶのかわからない 花は 自然のままに 咲くだけ 香るだけ」(河野進)われらは普段、気付いていない。造り主なる神の目にはどんな花にも優って自分の存在そのものが尊いとされていることを。ルカの記事では期待に応えることができずにいる無理解な弟子も、それを嘆くイエスも、いやしを必要とする父親も、皆ありのままの姿が伝えられている。マルコやマタイにある記事のようにそれぞれのあるべき姿が求められてもいない。ただ人々はイエスのわざを通して「神の偉大さ」に心を打たれる。教会はキリストのからだであり、一人ひとりは神の偉大なわざをあらわすパイプ的存在のように思う。「器」のように自分の所に溜めたり、蓋をしてしまうのではなく、「通路」のように恵みを流し、互いに繋がって全身に血液を送る「管」のような存在だ。「器」のように大きさや優劣で比較されるのでもない。ただ良き知らせの「通路」としてキリストの香りを各自が放ち、神の栄光をそれぞれの存在があらわすのである。通路であれば気張る必要もない、今は理解できなくてもそれが問題なのではない。ありのままでキリストの恵みの橋渡しとなり、神の偉大さ、福音を人々に持ち運ぶのだ。「花は咲くとき頑張らない。ゆるめるだけ」。福音の通路として今日を生きよう。(2025.6.1(日))
素晴らしい光景、感動的な場面はいつまでも記憶に留めたいと思うもの。ペトロもそうだったかもしれない。イエスの姿が変貌し、服は純白に輝く栄光の姿を目撃したペトロは興奮し、何かを残したいと思ったようだ。だが栄光に包まれたイエスの姿は雲に覆われてしまい、雲の中から声が響く「これに聞け」。と。そこにいたのはもはや輝かしいイエスではなかった。栄光の陰で、イエスはご自身の最期についてモーセとエリヤと話しておられた。弟子たちが聞くべきなのは、栄光に輝く神々しいイエスではなく、苦難を受けるイエスに聞くことなのではないか。彼はあらゆる苦しみの場所におられる。華々しく輝くような姿は隠され、「うめく」ところにご自身を現される。ほんとうに苦しんでいる人はうめいている。うめきは言語化できない、言葉は雲に覆われるように隠されている。それを聞き取ることは難しい。叫びなら聞こえる、泣き声なら見た目にもわかり、聞き取れる。けれども真に悲しみに打ちひしがれている人は、泣けないでいる場合がある。泣いてなんていられないから、笑っていたりする。辛さを心の奥に押し込め、人前では表面に出さず、見た目には気丈に振る舞いっていたりする。でも、隠れたところではうめいている。そのような人の声こそ聞くべきではないか。主イエスに聞く、それは普段は見えないところ、聞こえにくいところ、雲に覆われているように、隠されたところに心を向け、聞こうとする態度にあるのではないか。(2025.5.25)
「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイ元大統領ホセ・ムヒカさんが5/13にその生涯を閉じられた。収入のほとんどを貧困層に寄付し、自らは質素な暮らしを続けていた。「貧しい人とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」(朝日新聞とのインタビューより)彼は過度な資本主義に警鐘をならし、人間本来の幸せを世界に問いかけた。モノや金銭への執着心がない人の言葉には説得力がある。主イエスはその生涯において清貧を貫かれ、十字架の死にいたるまで「自分」ではなく、父なる神のご意志に従われた。十字架は「苦しみ」の代名詞でもあるが、「十字架」なくして「復活」はなかった。主イエスは招く「わたしに従って来なさい」と。自分を捨て、日々十字架を背負うとは小さな死の連続である。『小さな死とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びを生きる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行う事、仕返しや口答えを我慢するなど、自己中心的な自分との絶え間ない闘いにおいて実現できるもの』(渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」)。「自分」という我意を葬る時に、新しい命が輝き出す。一粒の麦、地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ。主イエスは朽ちない喜びにわれらを招いておられる。(2025.5.18)
GW明け。出勤や登校へのハードルが高く思える時期だ。毎朝子どもを学校に送り出す事に難儀している親は少なくない。文部科学省の発表によると不登校の小中学生は34万人を超えている。学校に行かない子どもの将来を案じる親もいるだろう。魚類学者でタレントの「さかなクン」の母親は、息子の担任から注意された事があったという。「このままでは将来困るのはお子さんなのですよ」と。しかし母親は「そのままでいいのです」と息子を受容し続けたという。もし周囲と異なる子どもの個別性を否定していたら、彼の才能は埋もれていたかもしれない・・。イエスは「自分を何者だと思うか」と弟子たちに問うた。「あなたは神からのメシア」と答えるペトロ。しかし弟子たちはイエスご自身をありのままを受け入れていたのでなく、自分の理想をイエスに押し付けていた可能性がある。事実、弟子たちはイエスの言葉や行動を理解できずに、後に彼を否定し見捨ててしまう。「メシア(油注がれた者)」とは、本来「王」として選ばれた者であるという事だ。つまり自分の支配者という意味を含む。われらは自分の都合や目的達成の手段として子どもや他人を、あるいは神さえも自分の思い通りに利用しようとしてしまうことさえある。イエスは自分が従うべきお方、イエスは主であるとありのまま受け入れる道にこそ、救いがある。(2025.5.11-母の日-)
昨年5月、水俣病犠牲者懇談会の途中、環境庁の職員が患者団体代表の発言中にマイクを切った問題が発生した。後に当時の大臣が謝罪する事態となった事は記憶に遠くない。止める事のできない犠牲者の心情、職員側としては職務遂行上の責任。どちらも必死だ。主イエスのもとに集まってきた人々も必死である。日雇い労働で何とか生き延び、その日の食べ物にも事欠く貧しい人々、差別を受け社会での居場所を追われた路上生活者や病人。主イエスは両手を広げ多様な人々を包んでいかれる。日が沈みかけると弟子たちが言う「群衆を解散させてください」と。しかし主イエスは、辛さの中に置かれている人たちの声を途中で切る事はなさらなかった。目の前にいる必死な人たちを放って置けなかったのだ。主イエスのもとでは様々な人たちの居場所が与えられ共に食事が分かち合われた。年代、経済的状況、人種、民族、社会的地位、性別などの区別がなくされるほどすべての人々が受け入れられたのだ。今年度の主題は「キリスト・イエスにおいて一つ〜包摂的共同体を目指して」(ガラテヤ3:28)である。キリストのもとでは、世代やジェンダー、文化、信仰や経験の違いを超えて一つに結ばれ、満ち足りる場所へ招かれる。
教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)の葬儀は約25万人が参列。アルゼンチン出身の彼は特に弱くされた人々に目を向けていた。貧困者に寄り添い、自らも質素な暮らしを貫きつつ世界に出向いて平和を訴え、来日した際には東北、長崎、広島を訪れ核の廃絶を訴えた。彼は幼少期から肺の病気により数年間入院生活をしている。健康な人をねたみ、神に対しても怒りを覚える日々。辛そうに呼吸をする彼を見舞った修道女が声を掛けた。「あなたはキリストと同じ息遣いですね」。この言葉が彼を変えたという。2013年に第266代教皇に選出され「キリストの代理者」としての使命を担った。主イエスは弟子たちを村々へと派遣するにあたり「何も持たずに行きなさい」と言われる。地位も金も所有していない弟子たちを受け入れたのは誰だろう?おそらく権力者などは戸惑う。喜んで迎えるのは貧しい人や孤独な人、助けや支えを必要とする病人たちであろう。主イエス自身、そのような人々と出会う旅を続けられた。5月には次の教皇が選出される。理想的な教皇は?ある枢機卿によれば「平和のために尽力し、弱い者に寄り添い、誠実に統治できる人」だという。次期教皇によって喜ぶ人、戸惑う人もいるだろう。プロテスタントでは教皇制度はない。だがキリスト者全員が「キリストの代理者」として世に遣わされている。個人的能力や所有物が重要なのではない。ありのままで「キリストを着る」(ロマ13:14)という誠実さが鍵だ。(2025.4.27)
「彼はもう終わった・・」と、神と人から見捨てられる結末に思えたイエスの十字架。だが神は、主イエスを復活させ、死という命の終焉を復活の初めとされた。「復活」それは、死という絶望の先にある希望、悲しみの先にある喜びである。復活は、暗い夜が明けて到来する光であり、長く厳しい冬が終わり、春を告げる命の躍動である。人間が終止符を打つような出来事を神は句読点とされる。神のご計画の中では、人間の宣告するピリオドは大いなるカンマ(区切り)に過ぎない。絶望や挫折、そこから新しく展開する道、神が一切のことを良い方向に仕上げてくださる希望が存在する。われらは、ここに招かれているからこそ、未だ見えない将来にむかって生きる勇気を抱くことができる。冬から春へは瞬時に変わらない。また夜明けから朝焼けに至るまでにはさまざまな色合いがグラデーションのように存在する。そのようにさまざまな葛藤、迷い、疑いがあるのが人間の現実だ。しかし、復活という希望、それは水面下に投じられる一雫のように同心円状に畝りながら着実にわれらの中で幾重にも輪を描きながら波動的に広がっていく。復活という希望が心の中心にある限り、われらの命も主イエスと共に躍動するのだ。(2025.4.20)