2025年度主題「キリスト・イエスにあって一つ〜包摂的共同体を目指して
ある人が強盗に襲われ、道端に倒れ込んでいた。そこを何人も通り過ぎたが、誰ひとり手を差し伸べなかった。ただ一人、異邦人と蔑まれていたサマリア人だけが立ち止まり、介抱した──これが「グッドサマリタン法」の源となった聖書の物語である。助けたいのに、助けられない。祭司やレビ人にも、彼らなりの事情や正当な理由があったに違いない。だが私たちの日常にも似たことがある。困っている人に声をかけられずに過ぎ去り、後から胸を締めつけられるような思いをすることはないだろうか。人は往々にして「したこと」より「しなかったこと」に苛まれる。その悔いは心の奥に影を落とし、トラウマとして残るのである。この物語に登場する人々は、皆それぞれに傷を抱えている。暴行され瀕死の状態で横たわる人。差別と敵意の視線にさらされ続けてきたサマリア人もまた、心に深い痛みを負っていたのかもしれない。その彼が倒れている人を見て「憐れに思った」と聖書は記す。胸が裂けるような思いで、彼は近寄り、傷を包み、寄り添ったのだ。この姿はやがて十字架のキリストへと重なる。彼こそ、人間の罪と痛みを負い、打たれ、釘打たれ、血を流された方である。その「打たれた傷によって、私たちは癒やされた」(イザヤ53:5)。人は皆、心に傷を抱えて生きている。しかしその傷は、キリストの傷の中で癒しへと変えられていく。そこに希望がある。(2025.9.7)
東京・巣鴨で起きた子ども置き去り事件(1988年)を題材にした映画「だれも知らない」(是枝裕和監督)では、戸籍もなく社会から認知されない子どもたちが懸命に生き延びようとする過酷な日常が描かれる。自分の存在を認められぬ痛み。戸籍に名が記されないことは、社会から消されるに等しい。だが主イエスは、一羽のすずめや野の花でさえも御心に止め、その儚く小さな存在をも顧みる神を示された。それは人がこの世でどんなに小さく見える存在であっても、神の目からはかけがえのない命として一人ひとりを忘れずに覚え、天に名が刻まれているという喜びをもたらす。フランスの物理学者でキリスト教思想家のパスカルは「歓喜、歓喜、歓喜の涙。我々は理性だけではなく、心によって真実を知る。アブラハム・イサク・ヤコブの神、哲学者の神にあらず」(パンセより)と神を知る喜びを書き残し、終生衣服に縫い付けていたという。この世ではしばしば名誉や称賛に喜びを見出すが、それは儚い。主イエスの言葉は、真の幸いは天に属することにあると示す。世の孤独と悲しみを越えて、朽ちることのない喜び、永遠の居場所へとわれらを招く。(2025.8.31)
「この戦争さえなかったら・・愛する国のために死ぬより、わしは愛する人のために生きたい!」(朝ドラ「あんぱん」より)敗戦から八十年、アジア・太平洋戦争で失われた310万もの命。その一人ひとりに名前があり、家族があり、笑顔があり、未来があった。戦争は人を「数」に変え、個人の尊厳を奪う。ルカによる福音書10章で主イエスが厳しく叱責しているのは「個人」ではく、「町々」である。町やムラ特有の価値観や風潮は周囲との同化を求め、個人の声をかき消すことがある。アウシュビッツを生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルは、人の苦しみは他者と同化できないからこそ尊厳の証だと語った。誰にも代わることのできない唯一無二の存在、それが「あなた」である。主イエスは町や群衆のなかに埋もれ、失われていた一人を見出してその名を呼び、愛するために生きられた。聖書は告げる。「あなたはわたしの目に高価で尊い」。平和とは、戦争の不在だけを指すのではない。互いを「役に立つか否か」で量らず、存在そのものをかけがえないものとして受けとめる営みである。どのような背景や状況にあろうと「あなたが在る」こと、他とは異なる「あなた」がいることが尊厳であり、平和の礎であり、主イエスのまなざしなのである。(2025.8.24)
「♩幸せなら手をたたこう」の歌は、詩編47編の「すべての民よ、手をたたけ」に由来しているそうだ。作詞者は国際的な生命倫理学の第一人者、木村利人さん(早稲田大学名誉教授)。彼は東京大空襲で自宅を失い、原爆や戦争で親戚を亡くした一人として被害者意識を持っていた。しかし1959年、フィリピンを訪れた彼は、現地で日本軍の加害の歴史と現地の人々の深い恨みに直面する。それでも1ヶ月間、地元の青年たちとYMCA(キリスト教青年会)農村復興ワークキャンプで共に汗を流しながら活動した。ある日、ラルフという青年が彼のもとに来て言った。「自分は戦争で父を亡くした。日本人が憎らしくてたまらなかった。けれども一緒に聖書を読み、活動しているうちに心に変化が起きた。君が戦争をしたわけではない。僕たちはキリストにあって友達だ」。そう言って和解の言葉をかけ、一緒に涙を流して祈り合ったという。その時に読んだ聖書が詩編47編であった。以降、ルソン島の人たちが態度に示して親切にしてくれた体験から感謝を込めて作詞し、よく知られた民謡のメロディーにのせて歌うようになった。日本では坂本九さんが歌い、東京オリンピックでも紹介されたことから世界中に広がっていったという。「幸せなら、手をたたこう」という歌は、クリスチャン同士の交流を通して、憎しみから、和解と平和への祈りとして生まれた。「すべての民よ、手をたたき、歓呼の叫びをあげよ」われらの「手」は武器をとるためではなく、拍手をもって相手を称賛し、祝福し合うためにあるはずだ。神のもとでは、すべての民族が共に、神の平和からくる幸せに招かれている。(2025.8.3(日)
学生時代、友達がラーメン屋でバイトを始めたので、仲間と食べに行った。運ばれてきたラーメンには、驚きの“具材”が。なんと、彼の指がスープに浸かっていたのだ。「おい、指入ってるぞ」と仲間が言うと、彼は涼しい顔で「おれは慣れてるから大丈夫」と返した。このやりとり、お互いがまず「自分ファースト」だ。まず自分の都合や思いが優先されることは悪いことではない。だがそれが強くなると家庭や社会、世界でも争いが絶えなくなる。ルカ福音書10章で、イエスは弟子たちを町々へ派遣するとき「まずこの家に『平和があるように』と言いなさい」と命じた。最初に相手の “平和”を願うのだ。世界では、自国の利益を最優先に掲げる動きが顕著になっている。こうした風潮は、人々の間に「排他主義」や「分断」を生み出しかねない。われらは主イエスによって分断ではなく調和、排除ではなく包摂的な神の国の使者として遣わされる。それは「まず平和」を携えて出会いに向かう道だ。神の国は、相手を尊重し、まず「あなたに平和があるように」と相手の幸いを願う姿勢にあらわれる。まず「平和」を願う者でありたい。(2025.7.27(日))
「コンコン」と礼拝堂の窓ガラスを叩く音。気になって見ると窓越しにある木の枝から体当たりするヒヨドリであった。どうやら縄張り意識から、ガラスに映った自分を「敵」と勘違いしていたようだ。何度もアタックする姿に小鳥の覚悟を見るようだ。ルカ9章の最後は、イエスに従いたいという志願者たちに厳しい「覚悟」を問う場面だ。イエスに従うことは「自分」をあきらめる覚悟と重なる。自分をあきらめるというのは、自分の力ではなく神の力に信頼するということである。ペトロをはじめ弟子たちは命をかけてイエスに従う覚悟があったが、いざ自分の身の安全が脅かされるとイエスを否定し、見捨ててしまった。人間の覚悟は揺らぎやすく、肝心な時に吹き飛ばされてしまう事がある。われらが神に従うことができるのは、われらの覚悟によるのではなく、神の覚悟があるからだ。神は眠ることもまどろむことなくわれらを見守る覚悟がある。あなたが老いて白髪になろうとも見捨てず背負う覚悟がある。独り子を世に与えるほど愛する覚悟がある。 「覚悟はあるか」を問われる時、われらはこう祈ろう。「主よ、私には完全な覚悟はありません。でも、あなたには、私を愛し抜く覚悟があると信じます。その覚悟に私を委ねます。どうか私を導いてください」と(2025.7.20(日)
主イエスは、しっかりと顔を上げエルサレムへと進んで行かれる(51節)。一行は旅の途中「サマリア」の村に入ったが、村人はイエスを歓迎しない。歴史的にはユダヤ人とサマリア人との間には対立があったようだ。「村」は「群」と同源(広辞苑)である。一対一であれば問題なく対話できるのに、「群衆」になると人は態度が変わったりする。「群衆心理」の著者ル・ボンによれば、「群衆」は未熟な心理に陥やすく、わかり易い「断言」になびいてしまうという。この村では「エルサレムへ行く者は敵」という単純なフレーズだけで恨みを募らせる思考が浮遊していたようだ。しかしそれはイエスの弟子たちも同質。彼らは自分たちを受け入れない相手に天罰を与えて呪うような単純思考の「群衆」でしかない。主イエスは振り向いて彼らを戒められる。主イエスは村から村へとエルサレムを目指す途上で、群衆の中にいる一人ひとりと出合われ、対話をされた。顔をしっかりと上げて進む先には、十字架が待ち受けている。それは「群衆」から排斥される道だ。罪人を懲らしめずに赦すイエスを「群衆」は呪う。剣を取らず敵と戦わないイエスを弟子たちは見捨てる。しかし、主イエスがしっかりと顔を上げて進まれた道にこそ、人々を罪から救う道につながっていたのだ。エルサレムで起こった主イエスの十字架と復活、昇天の出来事。そこから差別意識や民族同士の争いではなく、キリストにある和解と平和の道、もはや敵も味方もない神の国の福音が全世界へと伝えられたのだ。(2025.7.6(日)
だれが最も大いなる者かと論争する弟子たち。人は社会的に他者より優位に立ちたいという欲求があり、それは自己防衛や生存本能でもある。自然界には弱肉強食という摂理があるが、実際は必ずしも強者や大きいものが生き延びるわけではないようだ。なぜなら大きな恐竜もマンモスもすでにこの地上から絶滅しており、巨大な帝国も強大な権力者も、地上から姿を消している。主イエスはご自身の傍に小さな子どもを呼び寄せ、弟子たちに「この子どもを受け入れる者はわたしを受け入れる者である」と言われる。小さな子どもは、予想外の動きをすることがあるので目が離せない。時に親や大人の都合や予定を妨げる天才で、小さな子どもを受け入れるには変化に順応しなければならない。強者や大いなる者は支配、序列の優劣を競いがちで変化を好まない傾向があるが、小さな者はその土俵に乗らない自由があり、変化に対する柔軟さが成長となって未来への希望を繋ぐ。人生はある意味変化の連続である。しかし予測不能な出来事や出会い、経験もすべて人生の伏線に過ぎず、絶えざる変化は大いなる恵みの人生としてすべて回収されることを信じたい。最も偉い者は、他人より優れている自分の力や強みを誇示するのでなく、目の前にある困難なこと、受け入れがたい変化を受容していく態度にこそある。子どもを受け入れるように、自分の計画や考えで主イエスに従うのではなく、柔軟に変化を恐れず神のご支配を受け入れる者が神の偉大な御わざを証する恵みの通路を開く。(2025.6.29)
80年前、沖縄では4人に1人の命が戦争で奪われた。軍人同士だけではなく一般住民や少年少女たちも巻き込まれた戦慄の地上戦。鬼畜米英を刷り込まれた住民たちは洞窟(ガマ)に隠れた。本土決戦の足止めに捨て石とされた沖縄の住民たちは、日本軍より手榴弾を渡され集団自決を強いられる。軍の命令は絶対であって投降することは許されなかったのだ。ひめゆりの塔では42名の女学生を含む87名の命が絶たれた。約3ヶ月に及ぶ組織的戦いの終結日が6/23。この日は沖縄全線戦没者追悼式が毎年開かれる。「命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)」とは、何をおいても「命こそが大切」であるいう意味。沖縄で反戦平和運動のスローガンとして用いられる。かつてドイツのワイゼッカー元大統領は「過去に目を閉ざす者は、結果として現在にも目を閉ざすことになる」と語った。敗戦後80年、わが国では歴史修正主義、歴史捏造主義が登場している。「そんな事実はない」あるいは「歴史が書き換えられている」と公言する議員は沖縄の人たちの心を痛めた。長崎で5歳の時に被曝し、神父となった小崎登明さんの言葉が今も響く。「他人の痛みがわかる人間になることが平和の原点だ」。沖縄では今も戦争が続いている。兵士による女性への暴行事件が絶えず、伊江島では最近も20人分の戦没者の遺骨が見つかった。南西諸島には次々とミサイル基地が配備され、沖縄では実に国全体の74%もの米軍基地が押し付けられている。軍事基地がある以上は日々命の危険に脅かされる。沖縄の平和はわれらの平和。われらは沖縄の痛みを自分たちの事として共に心を痛め、平和をつくる原点に招かれるのだ。
五旬祭(ペンテコステ)は元来、モーセがシナイ山にて神の言葉(十戒)を授かった記念日として祝われたようだ。主イエスの復活から50日目のペンテコステの日。聖霊が降り、集まっていた弟子たちは異なる言語で話し始めた。すると祭りに来ていた多様な言語を話す人たちは、皆それぞれの故郷の言葉で「神の偉大なわざ」を聞いたのであった。「聖書」は、神の言葉としてあらゆる言語に翻訳され続けている。旧新約聖書は756の言語、聖書物語や分冊を含め、手話言語も含めると3756言語に達した。(世界ウィクリフ同盟2024.9)神の偉大なわざは今も世界中の多様な人々にそれぞれの国、故郷の言葉で届けられているのだ。かつて高みを目指したバベルの塔の建設は頓挫し、互いに言葉が通じなくなった。ペンテコステの聖霊は、高い所でなく低き所に降った。強さではなく、無力で弱さに打ちひしがれた人々の上に神の愛と恵みが注がれた。そうして神に呼び集められた者たちをひとつに結ぶ教会が誕生したのだ。教会は強さで通じ合うのではなく、むしろ弱さで連帯する。川は低いところに流れて行く。どの川も争うことなく、低みに向かい大海に通じてひとつにされる。われらも多様な背景、異なる個性を持っているがそれぞれがへりくだって低みに向かう時、偉大な神のわざを証しする恵みの通路となるのだ。そこではあらゆる人々と通じ合う道となる。「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)2025.6.8(日)