南光台キリスト教会〜田中信矢牧師コラム

不公平と格差の現実は昔も今も変わらない。特権を利用してぼろ儲けする者がいる。その陰で暴力は肯定できないが、それほど追い詰められ権利を剥奪されている人たちがいる。空腹であっても食べるものがなく、支払うあてもないのに無情にも要求されるような不条理、呪われたイチジクのような存在がある。イエスはその姿を自らの行動で代弁されるかのようだ。神殿は「すべての人の祈りの家」(17)とされる。両替人がいた場所は本来、外国人のための礼拝所だったが居場所が奪われていた。「鳩」は困窮者のためのささげもの。宗教的価値観を重視するなら金額を上乗せされても文句は言えない。結果的に追放され、貧しい者たちは神殿に入る事もできずにいる。宗教的な神聖さや常識を追求すればする程、特定の人しか礼拝できないという差別社会の縮図となっていたのだ。イエスは身をもって本来のあり方を示される。何かを伝える場合には暴力的な手段によらず「対話」が必要であることは今や常識であるが、「祈り」とは神との「対話」である。何よりも大切にされるべき神との関係における常識、対話の場が阻害されていたのだ。われらは誰もが祈りの家、神との対話に招かれている。それを妨げるものがあってはならないという明確な意思と熱意がこの出来事にはあらわれている。以降イエスは、神殿にいてすべての人と問答、対話をされる。そして追放され、酷い暴力を受ける側となられる。イチジクのように呪われる立場となられる。すべての人と対話し、救うために。教会は神との対話の家として人々を招く。(2021.7.18(日)

1966年7月10日、最初の礼拝がささげられてから55年。今も礼拝が続けられている。「継続は力なり」とは、弛まず挫けずに続けていくことの大切さを端的に述べた表現だが、われらとって「力」は、偉大なる神からの「賜物」であって、今も礼拝が「継続」されていることは「神」から来る「恵み」である。ゆえに「継続は恵みなり」と宣言したい。エフェソ書3章では神の「力」、「恵み」が何度も繰り返し登場する。また、「あなたがた」「わたしたち」と何度も呼ばれているが、それは「教会」を指す。教会(エクレシア)は、建物ではなく神によって呼び集められた者の集まりの意である。教会は、神が計り知れないキリストの愛と恵みを及ぼすところであって、教会を抜きには真の神の力、恵みを知り得ないと言っても過言ではない。われらは「教会」でキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、その偉大な愛を知るように招かれている。キリストと教会を切り離すことはできない関係である。主イエス・キリストのからだと呼ばれる教会によって、神の満ち溢れる豊かさにあずかり(19節)、神は栄光をあらわされる。われらの願い、考えることのすべてをはるかに超えた果てしない恵みが続き(21節)、世のすべての世代に受け継がれていくのだ。「われは愛す主の教会を。尊き血をもて贖われし。主のまことの続く限り、われらの幸いここにぞある」(新生讃美歌353番1.4番)

昨今、明るいニュースと言えばメジャーリーグ大谷選手の活躍だろう。閉塞感の否めない日常では楽しみのひとつ。さて、元祖二刀流といえばベーブルース。彼は不良少年だったが、神父から「君が必要なんだ」と声を掛けられたことがきっかけで、後に偉大な野球界のレジェンドとなる。誰かに「必要」とされること。それは生きる理由の根幹にあるはずだ。イエスのエルサレム入城という大事な場面で必要とされたのは「子ろば」であった。本来の生き方ができずに所有者に「つながれていた」存在。守られているようで何かに支配されおり、責任を負う立場ではないが自由ではない。イエスはその縛りを「ほどかれ」、ご自身の目的のために必要とされる。魅力的で有能さが際立ち、戦闘用や機動力として重宝される「馬」ではなく、庶民的でしかも、幼い未熟な子ろばがイエスには必要であった。平和の象徴、敵を倒す戦力や期待には役に立たない者としての入城。それが人間を罪の束縛から救う王なるメシアとして相応しいということを示すために・・。「子ろば」を必要とされた主イエス。彼はわれらに有能さや偉大さを求めておられるわけではない。未熟であっても、もう役に立たないと思っていても、あなたという存在は密接不可分の「主の必要」があるのだ。(2021.7.4)

盲人バルティマイの叫び。多勢の群衆が行き交うエリコの街頭にて人々の騒音は彼の存在を無情にもかき消そうとする。彼の叫びが続く。苦しさは必然的に叫びを呼び起こす。人々は黙らせようと彼を叱りつけ妨害する。だが、彼は益々叫び続け止むことはない。叫び続けたその先でイエスが立ち止まられる。届いたのだ。盲目という身体の障害も、貧しさという生活の困窮も、イエスとの出会いを決して妨げない。彼は跳び上がって喜び、身に付けていた衣を投げ捨ててあの方の元へ向かう。物乞いにはもう何も所有するものはない。彼にとってはもはやイエスから一切のものを期待し、彼にのみ求める者となる。「何をしてほしいのか?」このイエスの言葉は弟子たちの願いに対する言葉と同じだ。弟子たちは「誰が一番偉いか?」を巡っての議論の延長。差し当たり今必要ではなく将来の地位を求める。彼らにはイエスの道が見えていない。盲人は切迫した緊急を要する必死な願いであった。「あなたの道を行きなさい。あなたの信頼があなたを救った」とイエスの言葉。「見える」ようになったバルティマイの目には受難の道へと進むイエスが。彼は自分の道で主イエスに従って行く。仕えるより、仕えられる方を求める弟子たちにイエスは道を示される。余裕や安易な状況下では決して見えない真実がある。緊急時、いのちの実存が問われる場面では余計なものは要らず、真実に必要な事柄だけが見える。叫び続けた先に出会った「道」。必要なものはただ、イエスに対する「信頼」なのだ。(2021.6.13(日))
「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13:7)とある。「忍ぶ(ステゴー)」の本来の意味は「口を覆って語らない」の意と言う。われらは時々愛するものに意見をして悪いところを改めさせようする。だが、愛は相手に変わることを強要しない。ただ信じ続け、望み続け、それでも変わらない場合は「すべてに耐える」ものだと言う。イエスは多くの苦しみを担って嘲弄され、鞭打たれ、死の宣告を受けるという受難の道を先頭に立って進まれる。しかし弟子たちは相変わらず誰が一番偉いかというポジション狙い。今度はヤコブとヨハネが然るべき権力の座に就きたいと願う。三度目の受難予告にもかかわらず、彼らは全く分かっていない。一向に変わらない。自分が偉くなれることを期待し下心を抱いてついて来たのかと思うと愕然とし、イエスにとっては寂しさや孤独感が強まることであろう。にもかかわらず、彼は弟子たちを受け入れ続けて諦めない。ただ信じ、忍ばれる関わりの中で繋がろうとされる。この弟子たちへの忍耐において神の愛が示されている。同様にわれらも忍ぶ愛によって生かされている。 (2021.6.6)
 盗まず、姦淫せず、偽証せず、父母を敬う・・・。善いお方である神の戒めを守って来たと即答する人。世の中では人生の成功者であったが、永続する生き方をイエスに求めて彼は問う。イエスは彼を慈しみ、見つめながら言う。「あなたに欠けがひとつある・・。持てるものを手離して我に従え」と。彼は自分と対極に生きる者とは共生できないでいた。多くを持つがゆえに、何も持たない人の心が欠けている。彼は、顔を曇らしその場を立ち去る。その後、財産持ちは神の国には入れないという話かと思いきや、人のところでは不可能でも、神のところではできる、とイエスの言葉。それはこの立ち去った者に可能性を残しているように思う。「後の者が先に、先の者が後になる」という帰結にも繋がる。渡辺和子さんの著作※に次のような話がある。ある人が掌に入るくらいの小石を、手術前の患者に握らせる。その小石には平仮名で「だいじょうぶ」との文字。受取人は「きっと成功するんですね。」と喜ぶ。するとその方は、「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでもだいじょうぶ。そういう<だいじょうぶの小石>なんですよ」とおっしゃる・・。そういう話である。願い通りにならなくても、神は善いお方だから、決して悪いようになさらないという信頼の話だ。今朝の記事に登場する彼は、失敗してはダメだ、転んではいけない、と必死だったのかも知れない。そんな彼を慈しみの眼差しで見つめるイエス。どちらであっても神の愛は変わらないという眼差しに思える。善いお方である神を信頼せよ、永続するのは変わらぬ神の愛にあると。「ああ、主のひとみ」の作者である井置利男氏は、自分は救われないと自暴自棄に陥ったとき、裏切る弟子をも愛をもって見つめられる眼差しが自分にも向けられていることに心を打たれ、この讃美歌が生まれたという。主イエスの愛と慈しみの眼差しは今日もわれら一人ひとりに。「私が共にいる」と、だいじょうぶの眼差しを注ぎつつ。(2021.5.30) ※「忘れかけていた大切なことp.62-63」PHP文庫
聖霊降臨の記念日であるペンテコステ礼拝は教会暦では毎年5月か6月頃の初夏に迎える。風薫る5月。野に咲きはじめた花の香りを運んでくれる春の風や、青々と茂った樹木の間を爽やかに吹き抜けていく初夏の風。そよぐ風に薫る若々しい緑の草木を照らす光を浴びながら思わず深呼吸したくなるような心地よい季節だ。ペンテコステの日に吹き渡った聖霊の風は、集められたひとり一人にキリストによる愛の香りを運び、新しい恵みの窓を開いて自由と希望の世界へと導いて行った。以前はイエスを裏切り、恥と自責の思いに打ちひしがれ、表舞台に出られなかった弟子たちに新しい生命の風が吹いた。自分の弱さや惨めさが茂った心を吹き抜け、枯渇した魂を神の言葉を伝えずにはおれないほどの力で満たし、神の恵みの風通しが円滑となった。もはや自分の力ではなく、上からの力によって神のわざをあらわしていく大いなる扉が開かれたのだ。聖霊は、今もひとり一人に希望の息吹を送られる。主イエス・キリストの十字架における愛を指し示しつつ。(2021.5.23)
幼いRくん。彼はイエスさまと遊んだ夢を見たと話す。かくれんぼに追いかけっこ。電車ごっこで一緒に連なり庭中を駆けまわって物凄く楽しかった!という。彼はイエスさまと両手をつないだまま見つめ合い、こう尋ねる。「ねぇ、ずっとずうっーと、いつまでも、いつまでも、僕と遊んでくれる?」するとイエスさまは「いいよぉー!」とニッコリ。満面の笑みで答えてくれたのだそうだ・・・。「夢」の中での話である。でも、子どもを祝福されるイエスは、きっとそんな人格の一面をお持ちであろうと私は思う。「大人」として神の国をとらえる弟子たち。大人社会では子どもは時に仕事の邪魔となり、追い出されてしまう場面もある。自分勝手で物事の分別において未完成のままだから、未熟な者には「大人になれ」と嗜める。しかし神の前では「大人である」ことが要求されているのではなく、「子」のままで招かれている。神の国では、自らの偉大さや実力によるのではなく、他者に連れられねばならないような<無力さ>において、即ち神に信頼せずには生きられない関係においてこそ、神の愛と祝福に出会うのだ。イエスはご自分のところに来る者を誰も拒まないお方として今もわれらを招く。それを妨げようとする者への厳しさ、激しい憤りのなかに、イエスのどんな小さな存在でもありのまま受け入れる愛と優しさがあらわれているのではないか。連れて来られた子らを腕に抱き、両手を置いて祝福されるイエス(16節)。彼のもとでは期待以上の喜びと祝福に包まれていく。(2021.5.16)
「男」を主語として離縁の可否を訪ねる場面(2節)。「女」の人権は無視されている。だが、イエスは当時の男女不平等社会において、「女」側の選択肢をあえて提示している(12節)。この視点を看過すべきではない。イエスにおいては当初から男だから、女だからという関わり方ではなく、それぞれ個別に応じられるお方のように思う。その意味で、性的差別のないジェンダーレス的?な面がある。しかし、彼自身が所謂該当者か否かという議論はここでは避けたい。聖書には男子として誕生したとある。もし、現代でいうL.G.B.T ・・・A.I.Qと言われる多様な性的指向、性自認者と出会ったならば、イエスはどう接されるであろうか?男と女という性の枠組みのゆえに苦しみ、声を上げることも出来ずに心傷んでいる方を置き去りにすることは、神の意志だろうか?「どなたでもお越しください」と教会は招く。性差別は重大な人権問題だ。日本バプテスト連盟も「性差別問題委員会」があり、われらが気付くべきこと、少数派であるがゆえに声を上げることができず、苦しみを抱えておられる人のその心の痛みというものを分かり合おうと働きかけがなされている。小さくされている者の解放を目指すのはイエス・キリストの福音の業である。イエスにあっては差別なく、すべての人を生きる居場所へと招く。もはや男も女もギリシア人もユダヤ人の区別もない。キリストにおいて一つに結ばれている(ガラテヤ3:28)。あなたも私もキリスト・イエスにおいて、ありのまま受け入れられているのだ。われらはそのような無限の包容力のなかではじめて、自分が愛されていることを知る。性別の良し悪しの問題ではない。神が主イエスにおいて結び合わせておられる愛から引き離されるものは何もない。(2021.5.9)

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