南光台キリスト教会〜田中信矢牧師コラム

テニス全米オープン覇者となった大坂なおみ選手。人種差別へ抗議マスクでも話題となったが、彼女自身もハイチ系アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ。9/19は混血児のためにエリザベツ・サンダーズホームを設立したキリスト者、澤田美喜(1901-1980)の生誕日である。敗戦後の混乱期、彼女は混血児が遺棄されている現状を目の当たりにし、1948年に孤児院を設立。日米両国から迫害を受けながらも戦争犠牲者の命を救うべく献身し、2000人以上の戦争混血児の母と呼ばれた。今でこそ「赤ちゃんポスト」などの制度があるが、70年以上も前に彼女は、祈りと共に大家族を養い育てたのだ。財産相続ともなれば骨肉の争いになる現実もあれば、血縁ではなくても強い絆で結ばれる関係もある。主イエスは、ご自分のそばに座っている人々を見回し、「見なさい。ここにわたしの母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3章34節)と言われた。主イエスは、ご自分を求めて共にいる人たちを誰よりも大事にされ、主イエスのそばにいようとする者を「あなたはわたしの家族だ」と招いてくださるのだ。主は共にいるひとり一人にご自身の命まで差し出して差別することなく愛し、神の御心を行われる。われらも教会を通してこの主イエスのそばに置かれ、神を父と呼ぶほどに新しく強い絆、永遠に至る愛に生かされている。(2020.9.13 )
「絶対にゆるさん(3)、2、1・・ゆるす」流星というコンビ芸人のネタには苦笑してしまう。「ゆるせる事、ゆるせない事」それは人によって異なる。最近人気のドラマのように「やられたらやり返す、倍返しだ」と言わんばかりに「絶対にゆるせん、二千、三千・・と憎しみが増大し、対立や絶縁をもたらす例もあろう。聖書で「罪のゆるし」を指す場合、一般に創造主なる神と人間という<対神関係>を意味する。十字の線でいうなら、縦の線(神と人との関係)と横の線(人間関係)、それぞれ方向性がある。漢字は「許し(許可)」よりも「赦し(恩赦)」の字が当てられる。神の子イエス・キリストによる出来事、その福音宣教は神の人間に対する「赦しの宣言」である。主イエスは、「人の子らが犯すどんな罪(複数)も(神から)赦される」と言う。しかしその後、「聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、その罪(単数)の責めを負う」(30節)と語り、「赦されない罪(罪)の存在を示された。その罪とは具体的に何なのか、われらは判断できない。人間同士の「ゆるし」の基準は差異が生じる。だが、聖霊なる神の働きとして唯一、神から「赦し」の道が示されている。その働きを否定し、メシアなるイエスを拒否する事は、神からの赦しと救いを拒む事に繋がるのだ。(2020.9.6)
使徒たちの「任命」。原語では「つくる」という意味を含んでいる。それは物事を仕上げる側に主権がある事を意味する。弟子たちではなく主イエスが選び、つくりあげられるのだ。「つくる」という作業は、手掛ける対象から離れては完成しない。その意味では使徒たちは<主イエスと共にあって>こそ「使徒」なのである。使徒を選んだ主イエスの目的は、ご自分の側に置くためであり、主イエスの働きを成すため派遣し、人々を悪しきものから解放する特権を与えるためであった。主イエスはが選ばれた弟子たちは実に多様である。性格も職業も出身地も同一ではない。兄弟同士もいるが、互いに相容れない対立関係にあると思える面々もいる。あたかも教会の縮図のようだ。教会は一人ひとりが主イエスによって選ばれ、集められている。過去や何かに優れた能力や実績が求められているのではない。ただ主イエスの側にいる事が求められているのだ。われらには違いはあっても、イエスを主と告白する信仰告白共同体であり、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜ぶ運命共同体である。どうして良いかわからない時でも祈りを集め、主イエスのもとへ委ねる事が出来るのだ。祈りしかできないのではなく、これこそが最大の特権なのだ。主イエスは手掛けられる事を決して放棄されない。必ず主が万事につき善きもの、愛、喜び、平和をつくり、仕上げられるのだ。(2020.8.30)
「密です。」とは、コロナウィルス対策として互いに距離を取ることを促す言葉となった。<①宗教と政治の密>イエスの時代、ファリサイ派と呼ばれる宗教指導者とヘロデ派という政治的な影響下にある者たちは密接な関係となっていった。その目的はイエスの殺害であった(6節)。歴史上、政治と宗教が密着する所に平和はなく、むしろ人命が奪われるという方向に向かうということが繰り返されて来た。われらは「政教分離の原則」に立ち、密を回避するための距離が必要だ。<②群衆との密>主イエスのもとには夥しい群衆が殺到(7-8節)。四方八方から押し寄せた群衆にとってイエスの存在は自分たちに利益をもたらす対象でしかない。病気の治癒や問題が解消されれば用済みとなり得る。群衆心理は「個別の出会い」を遠ざける。ガリラヤ湖畔にて押しつぶされそうになる主イエスは小舟に乗り、群衆と一定の距離を保たれた(9節)。そして、苦しさや辛さの中にあって求めてくる群衆の一人ひとりが抱く願望の根幹にあるところに触れるべく、かれらに福音の言葉を聞かせられた事であろう。神の恵みにより問題が速やかに解決することもあろうが、本当の救いは、主イエスご自身を知る「密なる出会い」を通してこそ得られる。「密」とはきめ細かく、行き届いていく状態を指す意味を含むが、主イエスは群衆と接しながらも、その一人と個別に出会い、親密な関係へと招かれる。実にきめ細く日々配慮され、その場限りではなく、全生涯にわたって神の愛が行き届いていく関係として、共に歩もうとされるのだ。<③メシアの秘密>「あなたは神の子だ」と叫びながらひれ伏す汚れた霊どもに、主イエスはまだ「広めないように」と制される(12節)。われらは主イエスの十字架と復活を通してはじめて、このお方を神の子、救い主と告白するのである。(2020.8.23)
敗戦75周年8月6日広島原爆の日、広島で被爆した当時70代の男性と女性の2人と、ほぼ同年代で米国の原爆開発者との対談がニュースで放映された(15年前の収録)。当時、この科学者は広島で巨大なキノコ雲を上空から撮影。「あなたはキノコ雲の下、市民が地獄絵さながら泣き叫び、皆、右往左往している姿を想像されましたか?」と問う被爆者。「わたしは謝罪するつもりはない」と何度も首を横に振る科学者。彼は、彼なりの正義を語る。「アメリカでは『真珠湾を忘れるな』と言う言葉がある。非難するなら日本軍だ。」目から涙をため、口をハンカチで抑えながらこらえる女性被爆者。互いの心に言いようもないわだかまりを残したまま対話は終了。戦争の罪深さ、根深さを感じさせるものであった。▼いのちが悲しむ時には一緒に涙を流し、いのちの喜びの席では祝宴のように共に喜ばれる。そしていのちが蔑ろにされる時には、怒りさえあらわされる・・・。正にいのちと共に生きる姿、ここに主イエスのいのちへの姿勢がある。主イエスはいのちを救うためにご自身のいのちをささげ、人間の心の頑なさ、罪のゆえに、殺される者となられた。広島・長崎の雲の下、「水をください!」と叫ぶ原爆被害者のように、主イエスは暗闇の下、十字架で壮絶な「渇き」を覚えつつ死なれた。主は人類の最も悲痛な叫びの側に立たれたのだ。自分の過ちを認めることができず、自らの正当性を主張して譲らない頑なな心。誰かを責めても答えはない。自分自身の事で心が満ちる限り安息や平和は訪れない。安息日に神が望んでおられるのは、復活の主で心を満たす事だ。いのちの尊さ、いのちへの祝福は、平和を与える安息日の主イエスから到来する。 (2020.8.9「平和礼拝」)
週に一度の休日、由来は聖書にある。「安息日(休日)」は人間のために定められた。創世記によれば、神は創造の業を離れて第7の日に安息され、この日を祝福された。第6の日に人間が造られたとすれば、最初に迎える日は「安息日」である。「安息日」にわれらは神が神であることを知り、神はわれら被造物をありのまま受け入れ祝福される、そこでわれらは生きる意義と喜びを見出し、週の歩みをはじめる。モルトマンは「安息日は神がいる日」と表現している〈Jモルトマン組織神学論叢2「1創造の完成Ⅵ「安息日」―創造の祝日p403-405沖野政弘訳」新教出版社>。子とって普段「親」を感じる日は、親が仕事をしている時ではない。家事などを中止して親がその作業から離れて休み、子と真正面から向き合う時にこそ、その存在をありのまま感じる。主イエスは「人の子は安息日の主」と言われた。主が復活された日曜日は「主の日」とされ、われらは安息日の主と出会う。この日は、「主イエスがいる日」なのだ。主は常に共におられるが、この日はその恵みの事実をありのまま知るのである。主イエスが真正面で向き合われ、われらのありのままを受け入れ祝福される。自らの力で心身の疲れを癒そうとする限り、本当の安らぎを得る事はない。そこでは自分自身が安息をもたらす主人になっているからだ。「疲れた者、重荷を負っている者は、誰でもわたしのもとに来なさい」と招かれる主イエスのもとでこそ、われらを苦しめる一切の重荷、病、悲しみ、中傷、罪の束縛から解き放たれていく恵みを知り、生きる望みと力を得るのだ。(2020.8.2)
「目からウロコ」「豚に真珠」等。いずれも出典は聖書である。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」もその一つ。「新しい思想や内容を生かすためには、新しい形式が必要」という意味で使われている。イエスのおられるところでは祝宴のような喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響く(イザヤ51:3)世界が実現していた。一方、正しさを巡って、昨今のマスクや自粛警察と呼ばれるような存在から非難の的とされたイエス。そこで語られたのが上記の言葉である。イエスにとっての関心事は、相手に正しさを強要する関わりではなく、ただありのままの人間を愛し、共に歩むことであった。それゆえイエスは正しく生きる事ができず、罪人とされた人々の重荷、悲しみ、そして他者の罪を背負う者となられた。そこにイエスの正しさ、罪なき姿がある。「新しいぶどう酒」はイエスご自身と深く結び付いている。「ぶどう酒」は当時も常飲され、祝宴には欠かせない存在である。形式によらない新鮮で豊かな喜びをもたらす源泉は、「主イエスが共におられる」という恵みから到来するのだ。コロナの時代、「新しい生活様式」が推奨される。「新しい革袋」が必要だ。今までの常識が通じず、発想も根本から転換が求められる時代にあって主の招きがひときわ新鮮さを増す。われらが時に変化を受け入れられず、喜ぶことが困難な状況にあるからこそ、主イエスと共に歩む道に招かれている。この方に絶えず心を向けて歩む日々にこそ、活き活きとした喜びが発酵し、芳醇なる感謝が熟成されていく。共におられる主イエスを喜ぶ心。それは新しい革袋としてどのような変化のある時代にも潤いをもたらす福音となるのである。2020.7.26
あるクリスチャンが強盗事件に巻き込まれ、被害者として法廷の証言台に立った。そこで被告人の罪状と共に処罰に関する内容が告げられ、意見を求められた。生活苦による犯行で加害者本人も悔いている様子。証言者は寛大にも情状酌量の意を示そうとして思わず「わたしも<罪人>ですから・・・」と言ってしまった。「え!?」表情を変えた裁判官。法廷の雰囲気が一瞬にして変わる。即座に気付いて「ああ、私はクリスチャンで宗教的な意味です・・」と弁明し、その場が和らいだそうである。▼当時、不正な利を貪る者として疑惑の渦中にあったユダヤの徴税人。レビもその一人であった。彼が不正に関わっていたかは不明であるが、レビはイエスの招きに応じ、新しい人生を歩み始める。レビは自分も「罪人」と自覚していたのであろうか。ギリシア名では「マタイ」。後に12弟子の一人に名を連ね、一説には「マタイよる福音書」原本の著者として、キリストの福音記者をとなったと伝えられる。彼にとってイエスの招きは、自分を救い、人生を全く新しく変える転機となったのだ。主イエスは言う。「健康な人に医者はいらない。わたしが来たのは正しい者を招くためではなく、罪人を招くためである」と。一方、自らを「正しい者」との自認していた当時の宗教的な指導者や学者たち。やがて彼らは自分たちの主張する正しさをもって救い主である罪のない主イエスを十字架につけることになる。自分は本来、人を裁けるような正しい人間なのではない、という神の前で抱く宗教的な自覚。主イエスの招きは「自分の正しさ」ではなく、自らの罪を知り、赦しを求めている人にこそ救いをもたらす恵みとなる。2020.7.19
皮膚が剥がれ落ち、身体が崩壊していくかのような「ツァラアト」の人を清められたイエス。その話題は今で言えばトレンド入りし、周辺地域に拡散された。数日後、イエスがおられた家では人々が押し寄せ、ひしめき合う状態であった。するとその場所の屋根が剥がされ、一人の中風の人が釣り下される。屋根が崩され、破片が落ちてくる状態は、皮膚が剥がれ落ち、身体が崩されるような症状で苦しんでいたツァラアトの人を連想させる。周囲にいる皆があっけに取られている中、主イエスはすべてを理解したかのように宣言する。「子よ、あなたの罪は赦される」と。身体の神経が麻痺する障がいを負っていたこの人はツァラアトと同様、神から有罪の判決を受けていると考えられていたのだ。罪を赦すことができるのは神以外にいない、冒涜だ、と学者たちの心は炎上。そこで主イエスは罪を赦す権威者として中風の人に、「起きて床を担いで歩け」と命じられる。主の権威は、苦しめれ、虐げられ、自分ではどうすることもできない悪しき束縛から解放する救いとして行使される。人間にとって癒しよりも優先されるべきなのは神から罪に問われない事。不幸や悲しみ、困難、苦しみが神からの刑罰ではないと思える事だ。人は因果応報で、不幸をもたらす犯人探しをするが、そこではツァラアトや中風の人たちのように、いわれもない苦しみを強要され、差別される人たちを生み出す温床になってしまうことがある。しかし、主イエスはその差別や苦しみ、罪からわたしたちを解放される。罪を贖う主イエスの十字架、その権威によって。2020.7.12
「重い皮膚病」と訳された「ツァラアト」。以前は感染力の強い病とされたが、実際は感染力も遺伝性も立証されていない。covid-19では2mだが、当時この患者は数キロレベルのソーシャルディスタンスが要求された。社会から隔離されてひとり孤独に暮らさねばならず、人前に出ようものなら「私は汚れた者だ!私から離れろ!」と叫び、自分が感染源であることを叫ばねばならない規定があったのだ。(レビ記13章参照)さらに罪人に対する天罰的な病とされていた。当時は患者に触れると汚れに感染し、罪が移るという認識だった思われる。だが、主イエスはこの患者と触れ合う。そして「深い憐れみ(感情が強く突き動かされる様子)」で、いわば感染者に手を差し伸べる。この病を罹ったばかりに受ける想像を絶する身も心も張り裂けそうな苦しみ、腸が千切れるような痛み、それをもたらすものに対する憤り、主イエスは感染者とされる者と苦痛を共にされるのだ。そして主イエスは言う。「わたしの心だ、きよくなれ」するとたちまち、患者はきよくされた。主イエスとの出会いには真の触れ合いがある。そこでは命、生への共有、共鳴がある。主イエスは苦しみにある者の痛みに触れると同時に手を差し伸べられ、ご自身のきよさ、喜び、望みと力を供給される。(2020.7.5)

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