南光台キリスト教会〜田中信矢牧師コラム

「間に合わなかった・・・」娘の訃報が届いた時のヤイロの心は如何許りであろう・・。もしかすると、あの名もなき女性が途中で立ち入らなかったら、娘は助かったかも知れないのだ。ヤイロ自身の言葉や行動はこれ以降、一切記されていない。おそらく絶句というヤイロの沈黙の中で、無念さや怒り、自責の念が渦巻いていたと思う。「恐れるな。ただ信じなさい」と言われたイエスの言葉も、彼の心に届いていただろうか?時はもう戻らず、止まらず、イエスと共に先へと進んでいく。しかしその後、イエスは娘の手を取り、起こされたのだ。人々は大きな驚愕をもって驚愕する(逐語訳)。この死んだ娘の蘇生物語は、主イエス・キリストが死に打ち勝ち、復活されたという信仰から伝承された。われらはしばし後悔に駆られ、「時を戻す」ことに救いを見ようとする。あの時必死に止めておけば・・・、もっと早く手を打っていたら・・・。この娘はその後何年生きたのかは知り得ないが、再び死を経験する。現実は、たとえ時が戻っても再び悲嘆に出会うのだ。「恐れるな。ただ信じなさい」と語るお方は、時計の針を戻す生き方ではなく、進める方向に導かれる。彼と共に歩む先では絶望の扉が開かれ、復活いう真の救いが備えられている事をこの出来事は示している。(2020.11.22)
12年間、深い苦しみと孤独の日々にあった一人の名もなき女性。彼女は持病を治したい一心で多くの医者に診てもらうが、かえって酷く苦しめられたという。全財産を使い果たすも良くなるどころか病は悪化する一方なのであった。さらに彼女の病は宗教的な事由で「誰とも接触できない」という社会的差別の下にあったと考えられる(レビ記15:25-27)。絶望的状況であった彼女は、イエスのことを聞いて群衆の中に紛れ込む。「彼の服にでも触れば癒される」(28節)という一方的に自分の都合を優先した彼女の動機は迷信的にも思えるのだが、服に触れた途端、持病が癒されるのを体感するのであった。イエスはご自身に接触した存在に気付かれ、大勢の群衆が犇めき合う中で辺りを見回された。自分を探しておられる事を知った彼女は、恐れながらも内に秘めていた一切の真実をイエスに打ち明ける。すると彼は「娘御よ、あなたの信頼が<今>、あなたを救ったのだ。安らかに行きなさい。そしてあなたの苦しみから<解かれて>達者でいなさい。(34節:岩波訳)」と、彼女の独善的行為を咎めるのではなく、彼女の必死さに真正面から応じられ、その行動をご自身への一途な「信頼」と受け止められたのだ。誰とも接触も許されず会話もできずにいた孤独な者が、主イエス・キリストと出会った時、真の解放と回復に与ったのである。このお方と出会うためには特別な信仰心や知識、立派さが必要なのではない。どのような過去があっても、たとえ自分は相応しくないと思える者であっても、必死さと真剣さに彼は振り向き、すべてを受け止めてくださる。イエスへの<信頼>があなたを救う。あなたも「安心しなさい。達者でいなさい」との祝福の言葉を宣言されて生きる者となれるのだ。(2020.11.15)
クリストファーという大男は、世界で最も偉大な者に仕える夢があった。不敗を誇る一国の王がいるとわかると、彼は出向いて仕えるようになる。だが、無敵と思えた王は悪魔の存在を恐れる弱点があった。そこで彼は最強の王が恐れるという悪魔に仕えるようになる。しかし悪魔は十字架を嫌い、キリストを恐れるのであった。より偉大な強者を求めて彼はキリストを捜し求める旅に出る。川を渡る人々を肩に担いで運ぶ渡し守りの仕事をするようになった彼は、ある日一人の子どもに出会う。軽いはずの子どもを運ぶうちにクリストファーはその重みに耐えかね沈みそうになる。漸く川岸にたどり着いた時、彼は背負っていた幼子がキリストだったと知る・・・。この絵本の話は「クリストファー(キリストを運ぶ者の意)」という半伝説的な3世紀頃の殉教者に由来するようである。大男が知った幼子の重みは、人々の罪、苦しみや悲しみを背負うキリストの十字架の重量なのであろう。一方で大男が担いきれない十字架を背負う事で、自分自身が川に流されず目的地にたどり着くメッセージも含まれているように思う。今日は「子ども祝福式」である。授かった一人の子どもの命、それは小さなキリストを背負うに等しく、全世界を担うほど責任と重みがある。だが同時に、その重みを知る者こそが使命を果たせる者となっていく。「偉さ、偉大さ」が問われる中、主イエスは幼子を示された。それは偉大さとは対極にある無力さの象徴である。われらは自分の力に過信する時には弱さの中に沈むのであり、自らの至らなさを自覚し、無力に思える時には、愛なる神に背負われている事を知る。その時、われらは「弱い時こそ強い」(Ⅱコリ9:12)という逆説的な福音に出会い、恵みと救いを享受するのだ。(2020.11.8子ども祝福式)
現在放映中のNHK朝のテレビ小説「エール」。主人公は「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などを作曲した古関裕而がモデルという。『彼が生み出す「鐘」の名がつく楽曲は、教会の鐘の音が原点なのかもしれない。』(刑部芳則著「古関裕而〜流行作曲家と激動の昭和」中公新書)古関の生家のすぐ側には教会(現、福島新町教会)があった。ドラマの中で主人公の恩師が語る台詞がある。「誰か一人に向けて書かれた曲って、不思議と多くの人の心に刺さるもんだよな・・・。」(第74話より) たった「一人」のためにささげる曲が、不思議と多くの人の心に響くのだと・・。群衆を後に残し、湖を渡り暴風雨の嵐を抜けて辿り着いた一行は、「一人」の苦しみに囚われた男と出会う。もはや人々の手に負えず、自虐行為にまで及び、誰も救うことができずに見放されていた孤独な「一人」の人間を、主イエスはその苦しみから解放し、救いと自由を与えられた。あたかも「一匹」の迷い出た羊を捜しに、他の大勢の羊たちを置いて出かける羊飼いの姿に主イエスが重なる。岸辺に残された群衆は、きっとこの話を後に知り、「一人」のために行動される彼の姿を知る事となろう。全体主義という言葉があるが、個人よりも全体の都合や利益を優先する考え方が基本にある。業績を上げるためには個々の諸事情など顧みられない。戦時下では「一人」の命よりも国家が大事とされ、そこではお国のために犠牲になる思想さえ蔓延った。「一人」の命は、大勢の命と連帯している。一人の救いは、万民の救いに等しいものだ。一人の救いは、天にいる幾千万ものみ使いの喜びに優る。主イエスは実に、「一人」を救いに出て行かれ、そして「一人」を今日も愛される。その「一人」とは、「わたし」であり、「あなた」である。(2020.11.1)
人生を舟旅にたとえるなら、必ずしも望む方向へ進むとは限らない。風の影響で思い通りは進まず、時には暴風雨という逆境に見舞われる。そこで水浸しになりながら、心に侵入する心配や恐怖という水を外に掻き出す事に必死となり、「もう限界、このまま沈んでしまう」と危惧する事もあろう。だが、われらの舟には主イエスが共におられる。「わたしたちが滅んでも平気なのですか」(38節)と訴える弟子たちに、彼は「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言われる。原文では「まだ<信頼>を持たないのか」という意味である。弟子たちは主を信用してはいたものの、まだ「信頼」に至ってはいない、という事であろうか。そこで彼が命じると暴風は止み、大きな凪が生じたと記されている(39節)。詩編には、人間に脅威をもたらす諸力としての荒海や暴風が<神>によって叱咤され、鎮められる描写(詩編77:17,89,10,104:6-7他)があるが、騒ぎ立つ波や風を鎮められる主イエスの姿が重なる。弟子たちは大きな恐れをもって、彼は何者なのかに心を向ける。新約記者らは「主を信頼する者は、決して失望する事がない」(ローマ10:11他)と証言するが、われらはどうであろう。情報の嵐のような時代にあっては虚偽の情報も飛び交う。そこで常に変わらず、真に信頼できる言葉に出会えるであろうか。たとえ人生の海の嵐という波に呑まれそうになっても、われらは騒ぎ立つ心を大きな凪にされる主イエスの御言葉、その権威のもとで救いにあずかり、癒しを受け、慰めを与えられ、望みを繋ぎつつ、嵐の中でも主イエスと共にある事の平安のうちを歩む者として召されている。(2020.10.25)
かつて生き、共に歩んだ愛する故人に対し、わられはもはや何もなし得ない。ただ在りし日を偲び、人の生死をお取り仕切りくださる万物の創造主に心を向けつつ、「今」を生きる。それだけが確かな事だ。中世の修道士たちは「メメント・モリ〜汝の死を覚えよ」を合言葉に生きた。ユダヤでも「今日が人生最後の日、今日は人生最初の日」そのように生きよ、と教えた。昨日できた事が、今日もできる事の恵みを感謝。今日という日の出会いの中で、互いに励まし合う事の喜び。明日の事は神に委ねる希望を抱いて今日を生きる。マザー・テレサから神父になるよう勧められた片柳弘史氏は、死について次のようにたとえている。「芋虫から見れば、蝶になることは死。芋虫が、死んだ仲間を思って『あいつはもう地面を這えない。葉っぱを食べられない』と悲しんでいるとき、その仲間は蝶として空を舞い、花の蜜を吸っています。人間の死も、それと同じなのかもしれません。」<こころの深呼吸p.324教文館2017>芋虫のような生であっても今日を精一杯に生きよう。(2020.10.18 召天者記念礼拝)
「花は咲くときはがんばらない。ゆるめるだけ」ある中学生が大切にしている言葉が新聞に紹介されていた。<朝日新聞「天声人語」2016.1.27>綺麗な花を咲かせるその姿は、われらの知らぬ間に、あたかも強張った蕾をゆるめるように花開く。いのちが活き活き輝くのは、時に自分の気負いや頑張りによらず、むしろ自分の力をゆるめる時かも知れない。上手く物事が進展しないかに思う時、不安の中に萎縮し、身動きが取れないような時、われらは何かに力んでいる。神の国はいのちが守られる領域であり、いのちといのちが共生する。主イエスの言葉は神の支配、そのお取り仕切りによって、聞く者に大いなる恵みをもたらす。それは「種」のように人の内に蒔かれ、知らぬ間に自ずと成長していく。神の言葉自体に命と力があるからだ。主イエスとそのみ言葉に信じる事はある意味、自分の力をゆるめる時である。人と比べて背伸びする事をやめ、自分自身の内側ばかりを見て結果を気にするのでもなく、神のご支配に身を委ねる事である。そこに結実がある。(2020.10.11)
「謎なぞ」。3人が各種のパンを食べていた。一人は「あんパン」もう一人は「クロワッサン」3人目は「食パン」それぞれ声をかけたら「一人だけ」が返事。どのパンを食べていた人か?答えは「食パン」。理由は食パンには「耳」があるから・・・。食パンの端(外皮)を耳と呼ぶのは日本特有である。一説には人の耳は顔の端についているので物の端っこにあるものを「耳」にたとえているという。ユダヤでは人の顔に口は一つで耳が二つあるのは、「話す二倍は聞きなさい」と神が教えておられると解釈。口よりも耳が上に位置するのも、「聞く」事の方が価値が高いのだという。主イエスは繰り返し「聞く耳のある者は、聞くがよい」と人々に問いかける。生ける神の言葉、闇を照らす「ともし火」として来られた主イエス。「ともし火」は、太陽のように眩しく直視できないものではなく、よく見つめる事のできる光である。主イエスとその言葉に聞こうとする者は、どんな暗闇の中を歩いていても足元が灯され、安らぎを見出す。彼の言葉は、包装紙で丁寧に包まれた贈答品のようにわれらのうちに届く。中身は隠されているが、みずから開けようと紐解けば神の恵みの絶大な価値、宝を見出すのだ。人は往々にして聞きたい事だけを聞き、知りたいと願わない情報は素通りする。みずから神の言葉を知ろうと求める者は、聞く耳を持つ者である。十字架という燭台の上に置かれた「ともし火」。偉大な恵みがここに隠されている。注視して歩むもう。ここから神の愛が明らかにされる。(2020.10.4)
敬老の日を迎えた。世界最長年齢(2020.9月現在)は、福岡市在住の田中力子さん(117)。ライト兄弟が人類初の有人飛行を達成した年に誕生、長寿のギネス記録保持者である。彼女は戦後1957年に洗礼(バプテスマ)を受けておられるが、われらと同じ群れ(日本バプテスト連盟)の教会員との事だ。5人のお孫さんとひ孫が8人、命のつながりに畏敬の念を抱く。主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」。種は「命」を持っている。一つの種が納屋の隅に飛んで芽生え、水も肥料も与えられず人から見捨てられたように放置されていても、まともな畑に植えられた株より逞しく育つ事がある。団栗でも、誰も地を耕さずとも勝手に木になっていく。まったく肥料のない火山灰に種を蒔いても木は育つ。「種」自体に「命」があるからだ。「種を蒔く人」は、どんな場所にも命ある種を蒔き続ける。道端、石だらけの地、いばらの地、どんな地であろうと命の種は平等に蒔かれる。主イエスは「種を蒔く人」のようだ。人がどんな土地(心)の状態であれ、聞く人に恵みをもたらす命の言葉を語り続けておられる。聞いて受け入れる者は良い土地となって必ず肥大な実を結ぶという約束を示し、「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返しわれらを招く。神の言葉は死なず、跳ね返されようと、忘れられようと必ず生きるのだ。神の言葉には真の命があり、どんな時にも望みを与え、信じる者を救う力がある。2020.9.27
テニス全米オープン覇者となった大坂なおみ選手。人種差別へ抗議マスクでも話題となったが、彼女自身もハイチ系アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ。9/19は混血児のためにエリザベツ・サンダーズホームを設立したキリスト者、澤田美喜(1901-1980)の生誕日である。敗戦後の混乱期、彼女は混血児が遺棄されている現状を目の当たりにし、1948年に孤児院を設立。日米両国から迫害を受けながらも戦争犠牲者の命を救うべく献身し、2000人以上の戦争混血児の母と呼ばれた。今でこそ「赤ちゃんポスト」などの制度があるが、70年以上も前に彼女は、祈りと共に大家族を養い育てたのだ。財産相続ともなれば骨肉の争いになる現実もあれば、血縁ではなくても強い絆で結ばれる関係もある。主イエスは、ご自分のそばに座っている人々を見回し、「見なさい。ここにわたしの母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3章34節)と言われた。主イエスは、ご自分を求めて共にいる人たちを誰よりも大事にされ、主イエスのそばにいようとする者を「あなたはわたしの家族だ」と招いてくださるのだ。主は共にいるひとり一人にご自身の命まで差し出して差別することなく愛し、神の御心を行われる。われらも教会を通してこの主イエスのそばに置かれ、神を父と呼ぶほどに新しく強い絆、永遠に至る愛に生かされている。(2020.9.13 )

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