南光台キリスト教会〜田中信矢牧師コラム

クリスマス前、サンタクロースに何をお願いしたの?と当時2歳の息子に尋ねた。彼は「バナナ!」と即答。当日の枕元には一房10数本の大きな現物が!彼は早速パクパクと嬉しそうにバナナを頬張った。翌年、同じ質問に彼は願う。「バナナ!と、飴」少し欲が出たか・・。祝宴の席で「欲しい者があれば、何でも言いなさい。お前にやろう!」と娘の願いを聞く領主ヘロデ。この娘が口を開いて、「バナナ!」と言ってくれたら、どんなに良かったか・・。残酷にも「ヨハネの首を」と、親の言いなりになって、邪魔な存在を排除しようとする母ヘロディアの願いを躊躇なく求める娘。自らの意のまま何でも願いを叶えてやれるという、自分の権力を会衆の前で見せつけようと力を誇示するヘロデの願望。「願い」がすべて叶うというのはこの記事では恐ろしい世界である。純真な子どもを巻き込むだけではなく、正しく尊い命が罪の餌食にされる残酷な悲劇となった。この出来事を機に、イエスはいよいよ十字架という苦難の道を進まれる。彼にも願いがあった。「この杯を取り去ってほしい」と。しかし、その願いは退けられる。イエスの願いが絶たれる事によって、われらの救いが実現したのだ。罪から来る願いと欲望は時に悍ましい悲惨な結果をもたらす事があるが、罪からの救いを信じる者にとっての願いは、他者への愛と救い、平和と命をもたらす希望となっていく。われらは主イエスによってこの祝宴に招かれている。「わたしは願おう、あなたに幸いがあるように」詩編122:9(2021.1.17)
昨年コロナに倒れた志村ケンさんの訃報は、多くの人に衝撃と悲しみを与えた。同タイトルの人気番組では彼の扮する“変なおじさん”が登場し、見る者に笑いを残した。その風貌は確かにマトモではなく明らかに変なのだが、こんな人も生かされている、だから「だいじょうぶだぁ」というメッセージにも受け取れる。新しい年を歩み始めたものの、2021年はだいじょうぶだろうか?かつてイエスは弟子たちを宣教の旅へと派遣されるにあたり、1本の杖の他は何も持たせず、食料も着替えも金銭さえも持たせず送り出された。旅先では何が起こるかわからない。弟子たちにとって心配事は尽きない。手中にあるのは杖。それに一切を託すように<神に信頼して>生きるより他ない。だが、このような無力さや乏しさにこそ神の力が及ぶ事を知らされる。コロナの猛威は止まらず、周囲では人々の恐怖心を煽るような情報が蔓延し、虚偽情報も混在する。先への予想が困難で世界が激変するこの時代。人間の「だいじょうぶ」さは虚しく響き、不確実性を増す。いったい何に信頼して歩むのかが決定的な影響を及ぼす。われらは、すべてが移り変わる激動の時代にあっても、主イエスの言葉は変わらず、その価値を失う事はない、という信頼の杖を持つことを許され、世に派遣されている。主にある使命を果たすための必要は、神が備えておられる。ゆえに表題を天声として歩もう。(2021.1.10)
昨年はコロナによってあらゆる予定が変更される日々にあった。抑人生とは予定変更の連続であって必ずしも計画通りには行くとは限らない。創世記に登場するヨセフの生涯を読むと、彼ほど予定が狂わされた人生があるだろうかと思う。平穏無事な生活が一変し、彼の人生の節目の場面ではなぜか、不幸に見える方向へと予定されてしまう。兄弟たちの悪巧みによってエジプトに奴隷として売られ、家族から引き離された異国の地で誠実に働くも、偽証によって牢獄に入れられる。聖書には「神はヨセフと共におられた」(創世記39:2等)とあるが、それなら、どうしてこんな目に遭うのかと叫びたくもなる。だが、物語の帰結は神の救いの出来事として告白される。彼が出遭った不遇の一つひとつが繋げられ、遂にはエジプトの大臣に出世したヨセフが大飢饉から諸国を救い、自分の家族を救う善となったのだ。人間のあらゆる悪意や企ては、最終的にはヨセフを見捨て不幸にさせる予定とはならなかった。慰めようもない辛く悲しい経験が、将来への希望、確かな未来へと神が尽くそれらを救いのために回収されたのだ。ここに神が共におられる人生において具現する道があるように思う。われらは未だ危機と困難の中に置かれている。しかし時に理解できない、納得のいかない出来事、変更を余儀なくされる事を通して、神の救いのみ業が前進して行く事があるのではなかろうか。前途多難に思える状況においても、われらの信じる神は常に善かつ愛のお方である。今年も信頼しすべて委ねて歩もう。(2021.1.3)
諸事情により親と共にいる事ができず、ある施設で暮らす男の子。彼はクリスマスの話を聞いた後、紙でクレッシュ(キリスト誕生の再現)を作る事になった。見ると飼い葉桶には2人の赤子が寝かされている。1人はイエス、もう1人は僕だという・・。吹き晒しの飼い葉桶で寝かされているイエスが、自分を迎えてくれたのだ、と。涙目になった男の子。きっと彼は、自分を捨てたり、虐待する事のない幼子イエスのそばに、自分の居場所を見出したのだろう・・。幼子はひとりでは生きられない存在である。誰かに抱かれ、誰かと共にいなければ生きる事ができないのだ。クリスマス、そのような弱さと居場所を失っている姿で、救い主イエスはご自身をあらわされた。救い主としてわれらに差し出されている幼子そばに、あなたも招かれている。恐れる必要はない。そこでわれらは救いと希望を抱く者として神の愛に生かされるのだ。(2020.12.20)
「聖霊によって身ごもった」というマリア。常識的にありえず受け入れ難い出来事である。婚約者のヨセフにとっては悶々と懊悩が続く。一人苦悩するヨセフに示されているのは「インマヌエル〜神はわれらと共にいる」という言葉であった。ミクロ的には「そんな事はありえない」という出来事であるが、マクロ的には救い主が生まれ、多くの者が救われてゆく活路となった。神が共におられたからである。こうしてヨセフはマリアと共に神の救済の計画の一翼を担って行く。先日、骨髄バンクからの通知が手元に届いた。ある患者との私のHLA型が適合し、ドナー候補者となったのだ。覚悟の上で登録したものの、実際に受け取ると正直不安にもなる。だが、もしこれで誰かの命が繋がるかも知れないと思うと少し気持ちが変えられる。たとえ受け入れ難い出来事を前にしても、インマヌエルの約束が示されている。この約束は神に信じてすべてを委ねるその先には、予想もしなかった神の救いと希望の計画が用意されている事に心が向く。今はわからず、見えないとしても、包装紙にくるまれた贈物のように神の愛と恵みが詰まっている、そう信じて歩みたい。(2020.12.13)
自分が真理だと確信していた事が、根底から崩れてしまう事がある。これで自分は救われる、と何の疑いもなかった信心が、実は真逆の道を辿っていたという事が起り得る。使徒パウロはそれに気付かされた人物ではなかろうか。彼は回心以前、聖書(律法)の知識や、神に仕える宗教的熱心さにおいて自らの確信に何の疑いもなかった。だが、その知識や敬虔は神の意志とは真逆の方向に突き進んでいたのだ。彼は教会を荒らし、キリスト者の迫害に熱心なのであった。その途上、彼は突然「光」に照らされて視力を失い、他人の手を借りなければ歩く事すらできない闇の中に置かれる。第二コリント3章から4章にかけて「光」「輝き」「栄光」という言葉が繰り返し登場するが、パウロは弱さという闇の中で「光」に照らされ、イエス・キリストが何者であるかを知るに至る。以降、パウロが徹底的に伝えた救い主は、十字架につけられたままのキリストであった。キリストの奇跡や力あるわざではなく、恥と弱さ、愚の骨頂に見える十字架の姿だ。自分の誇りや力の強さ、偉大さとは真逆にある弱さである。だが、ここにこそ神の栄光が輝き、救いの光がある。浅井力也というハワイの画家。彼は脳性麻痺というハンディーの姿のままで輝きがあらわれている。クリスチャンである母親の愛と神の愛に照らされ、いまも素晴らしい作品を生み出している。「闇から光が輝き出でよ」と命じられた神(6節)は、光をもって闇を照らす創造主であり、混沌から善きものを生じさせるお方である。(2020.12.6)
ガリラヤ地方で一躍有名になったイエス。現代に置き換えるなら彼の動向はトレンド上位を独占。本人の意向とは別に多くのフォロワーの支持を得る。一方、地元では彼の素性を暴露するかのような声が相次ぎ、故郷の人々はイエスに躓く。小さい頃からよく知っており、家族構成や職業など身近な情報もよく知っている仲間だったからだ。遠い存在ならば尊敬できても、肩を並べ得る同等の知り合いが出世したり名声を得るとその関係に生じるのは嫉妬なのかも知れない・・。地元で拒否されるかのような対応に対して彼は、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところならば、<尊ばれないことはない>」(岩波訳)と語る。結語は二重否定になっているが、原文ではイエスは郷里の人々を責めているのではなく、むしろ肯定的で「ここ以外ではどこででも尊敬されている」という事に力点がある。人気芸人コンビ「ぺこぱ」ではないが、どこまでも相手をフォローするような肯定だ。拒否されてもなお、相手に居場所を与える言葉。後にここに登場するイエスの身内は、原始キリスト教の信仰者としてその存在を今に伝える。自分の家以外では尊ばれるエビデンス。それはただイエスを救い主と信じ、自分自身ではどうする事もできない困難の中にあって主イエスのもとにひれ伏す者たちよって明らかにされる。直前に登場するヤイロや長血の女のように。(2020.11.29)
「間に合わなかった・・・」娘の訃報が届いた時のヤイロの心は如何許りであろう・・。もしかすると、あの名もなき女性が途中で立ち入らなかったら、娘は助かったかも知れないのだ。ヤイロ自身の言葉や行動はこれ以降、一切記されていない。おそらく絶句というヤイロの沈黙の中で、無念さや怒り、自責の念が渦巻いていたと思う。「恐れるな。ただ信じなさい」と言われたイエスの言葉も、彼の心に届いていただろうか?時はもう戻らず、止まらず、イエスと共に先へと進んでいく。しかしその後、イエスは娘の手を取り、起こされたのだ。人々は大きな驚愕をもって驚愕する(逐語訳)。この死んだ娘の蘇生物語は、主イエス・キリストが死に打ち勝ち、復活されたという信仰から伝承された。われらはしばし後悔に駆られ、「時を戻す」ことに救いを見ようとする。あの時必死に止めておけば・・・、もっと早く手を打っていたら・・・。この娘はその後何年生きたのかは知り得ないが、再び死を経験する。現実は、たとえ時が戻っても再び悲嘆に出会うのだ。「恐れるな。ただ信じなさい」と語るお方は、時計の針を戻す生き方ではなく、進める方向に導かれる。彼と共に歩む先では絶望の扉が開かれ、復活いう真の救いが備えられている事をこの出来事は示している。(2020.11.22)
12年間、深い苦しみと孤独の日々にあった一人の名もなき女性。彼女は持病を治したい一心で多くの医者に診てもらうが、かえって酷く苦しめられたという。全財産を使い果たすも良くなるどころか病は悪化する一方なのであった。さらに彼女の病は宗教的な事由で「誰とも接触できない」という社会的差別の下にあったと考えられる(レビ記15:25-27)。絶望的状況であった彼女は、イエスのことを聞いて群衆の中に紛れ込む。「彼の服にでも触れば癒される」(28節)という一方的に自分の都合を優先した彼女の動機は迷信的にも思えるのだが、服に触れた途端、持病が癒されるのを体感するのであった。イエスはご自身に接触した存在に気付かれ、大勢の群衆が犇めき合う中で辺りを見回された。自分を探しておられる事を知った彼女は、恐れながらも内に秘めていた一切の真実をイエスに打ち明ける。すると彼は「娘御よ、あなたの信頼が<今>、あなたを救ったのだ。安らかに行きなさい。そしてあなたの苦しみから<解かれて>達者でいなさい。(34節:岩波訳)」と、彼女の独善的行為を咎めるのではなく、彼女の必死さに真正面から応じられ、その行動をご自身への一途な「信頼」と受け止められたのだ。誰とも接触も許されず会話もできずにいた孤独な者が、主イエス・キリストと出会った時、真の解放と回復に与ったのである。このお方と出会うためには特別な信仰心や知識、立派さが必要なのではない。どのような過去があっても、たとえ自分は相応しくないと思える者であっても、必死さと真剣さに彼は振り向き、すべてを受け止めてくださる。イエスへの<信頼>があなたを救う。あなたも「安心しなさい。達者でいなさい」との祝福の言葉を宣言されて生きる者となれるのだ。(2020.11.15)
クリストファーという大男は、世界で最も偉大な者に仕える夢があった。不敗を誇る一国の王がいるとわかると、彼は出向いて仕えるようになる。だが、無敵と思えた王は悪魔の存在を恐れる弱点があった。そこで彼は最強の王が恐れるという悪魔に仕えるようになる。しかし悪魔は十字架を嫌い、キリストを恐れるのであった。より偉大な強者を求めて彼はキリストを捜し求める旅に出る。川を渡る人々を肩に担いで運ぶ渡し守りの仕事をするようになった彼は、ある日一人の子どもに出会う。軽いはずの子どもを運ぶうちにクリストファーはその重みに耐えかね沈みそうになる。漸く川岸にたどり着いた時、彼は背負っていた幼子がキリストだったと知る・・・。この絵本の話は「クリストファー(キリストを運ぶ者の意)」という半伝説的な3世紀頃の殉教者に由来するようである。大男が知った幼子の重みは、人々の罪、苦しみや悲しみを背負うキリストの十字架の重量なのであろう。一方で大男が担いきれない十字架を背負う事で、自分自身が川に流されず目的地にたどり着くメッセージも含まれているように思う。今日は「子ども祝福式」である。授かった一人の子どもの命、それは小さなキリストを背負うに等しく、全世界を担うほど責任と重みがある。だが同時に、その重みを知る者こそが使命を果たせる者となっていく。「偉さ、偉大さ」が問われる中、主イエスは幼子を示された。それは偉大さとは対極にある無力さの象徴である。われらは自分の力に過信する時には弱さの中に沈むのであり、自らの至らなさを自覚し、無力に思える時には、愛なる神に背負われている事を知る。その時、われらは「弱い時こそ強い」(Ⅱコリ9:12)という逆説的な福音に出会い、恵みと救いを享受するのだ。(2020.11.8子ども祝福式)

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