2024年度主題「神の望まれる道へ」

「誰も端っこで泣かないようにと君は地球を丸くしたんだろう?」(RADWIMPS「有心論」より)ある生徒が学校礼拝のレポートで紹介してくれた曲の一節。聖書の説教を聞いて思い出したという。ルカの系図は、「誰ものけ者にされないようにとみんな神の子にしたんだろう?」とも読める。ルカによるイエスの系図は、神の子イエスが人類の祖アダムに遡っている点が特徴的である。そして、アダムが神の子であるなら、その子孫であるイエスと共に全人類はみな、神の子なのだという全世界との連帯が表明されているともいえる。同じ青い空、同じ地球、この大地に住むすべての人たちをイエスは神の愛で結び、敵も味方もなく同じ命として繋いでいかれる。イエスは誰も端っこに追いやらない。もし、端っこで泣く人がいれば、イエスはそばに来て「あなたはひとりではない」と、うずくまった魂を生き返らせてくださるお方だ。彼は共に泣き、痛みに共感しつつ恐を締め出す完全な愛と無限の包容力ですべてを丸くおさめていかれる。われらはそのつながりの中で、主にあって生きる。主イエス・キリストこそ、すべての者をひとつに繋ぐ神の子救い主である。(2024.7.7)

教会近くにある台原森林公園では毎年6月下旬頃から夏の風物詩「螢(ゲンジボタル)」が鑑賞できる。この螢は幼虫になると水の中に潜り、陸へ上がると土の中で40日間サナギになる。羽化し成虫になると3日ほど脱皮した部屋で過ごし、いよいよ外に出る。夜には発光しながら森の中を駆け巡る。(「ゲンジボタルの生態」:仙台旭ヶ丘ホタルとメダカの会資料より)螢と主イエスには共通点がある。主イエスは洗礼(バプテスマ)を受けるために水の中に入り、それから40日間荒野で試練を受けられた。十字架の苦難を受けた後、死にて葬られ、3日目に墓よりよみがえられた。「ゲンジボタル」の学名Luciola cruciataは、前胸背板にある「十字架形」の黒い模様から来ており、それは「十字架」を背負われた主イエスを想起させる。螢はなぜ光るのか?理由は諸説あるが、雄と雌が出会うためらしい。すなわち、出会うべき相手を探し求めて光るのである。現在、毎週読んでいるルカ福音書は、ザアカイと主イエスの出会いの物語がある。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)という言葉は、本書の主題のひとつとも言われる。主イエスはわれらの歩む道を、御言葉をもって照らし導かれる。罪の闇に照る十字架という救いの光を灯しながら。(2024.6.30)

79年前の沖縄戦では県民4人に1人の命が戦争のため命を奪われた。今日は沖縄「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の日」。追悼記念式典「平和の詩」より・・・「あの日 短い命を知るはずもなく 少年少女たちは 誰かが始めた争いで 大きな未来とともに散って逝った 大切な人は突然 誰かが始めた争いで 夏の初めにいなくなった 泣く我が子を殺すしかなかった...

イエスが12才となった時の出来事。過越祭からの帰省中、わが子とはぐれたことに気付いた両親は、必死に探し回り、ついに神殿にいるイエスを見つける。彼は神殿を「自分の父の家」とみなしていた。人は誰もが自分の居場所を必要とする。子どもの時は、実家にいることで親の保護を受け、そこで必要なものが与えられ、育っていく。大人になるにつれ、居場所が家に限定されず、誰かとの関係性のなかに自分の役割や働きを見出していく。自分を最大限に生かせる場所に身を置き、そこに使命を見出す時、人は真の意味で成人する。ユダヤでは13才で成人になるという。12才での出来事以降、少年イエスが成人すると、彼は公生涯に入る時まで親に従順する場所におられた。そして33才の「過越祭」以降、彼は神殿本来のあり方を熱情的に示し、「わたしの家は祈りの家と唱えられるべき」と語られ、十字架で命をささげられた。主イエスは今、われらの内を神殿としてお住まいくださる。神と人との関係性の中にこそ真の居場所がある。「祈り」のうちにいつも、主は共におられる。そこにわれらの永遠の居場所もあるのだ。(2024.6.16)

「聖霊」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「ルアハ」、ギリシア語では「プネウマ」で双方「風・息」という意味を含む。風は目には見えないが吹く方向は解る。聖霊に導かれてシメオンが向かった先には救い主との出会いが待っていた。彼はそこで本望を遂げることになった。誰でも思い残すことなく人生を歩みたいと願うが、聖霊はわれらを向かうべき道へと導かれる。高齢となった84歳のアンナは昼も夜も神に仕えていた。仕えるとは、神を礼拝することである。そこでは祈りがあり、賛美があり、感謝がある。体力がなくとも祈りは可能である。聖霊は祈りへと導き、救い主イエスとわれらを引き合わせ、尽きることのない喜びをもたらしていく。聖霊の風が吹いて教会は誕生した。この箇所は教会の原型である。マリアとヨセフ、二人の高齢者、多様な背景を持つ者たちが聖霊の導きによってキリストのもとに集められている。われらも教会で主イエスと出会い、このお方を知り、神が望まれる道へと遣わされていく。その方角には神が出会わせたい人との出会い、聞くべき声、語るべき言葉がある。自分の力ではなく、神の愛という息吹に身を委ねて歩もう。(2024.6.9)

ルカ福音書2章では「飼い葉桶に寝かされる乳飲み子」が3度登場する。それが救い主誕生の「しるし」であり、飼い葉桶に寝かされている主イエスこそが、救いのシンボルとされているのだ。「飼い葉桶」とは、家畜の「餌箱」である。あたかも主イエスが、その場にいる者に差し出されている食べ物のようである。ルカはベツレヘムで生まれたキリストを伝える。ベツレヘムは「パンの家」という意味がある。ヨハネ福音書では、主イエスが「わたしは命のパンである」と語り、「わたしを食べる者は生きる」と霊的な意味でご自身を象徴的に語られた。人が本当の命に生きるために必要な糧としてご自身を食べ物のように差し出されたのだ。愛する者のために与える物にも様々あるが、「わたしを食べよ」とは究極の与え方ではないだろうか。自分を生かすのではなく、相手を生かす究極の与え方である。飼い葉桶に寝かされた救い主は、主イエスの十字架での死を想起させる。人間の罪の餌食となって体が裂かれ、血を流されたのだ。それは私たちを罪から救うために差し出された命である。「神はそのひとり子を与えるほど世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)主の晩餐式を通して主の愛を分かち合おう。(2024.6.2)

詩人で画家の星野富弘さんの葬儀が前橋キリスト教会で執り行われた。星野さんは体育教師となって2ヶ月後、部活指導中の事故で首の骨を折り、24歳の若さで肩から下の一切の機能を失った。絶望の果てに出会ったキリストの言葉に救われた彼は、口に筆をくわえ78歳の生涯を終えるまで多くの人々に慰めと希望を与える作品を残した。彼は、どんな境遇や悲惨な状況のなかにも、幸せや喜びはあるのではないか?と問いつつ、病気や怪我も本来は幸・不幸の性格はもっていない。それを持たせるのは人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないか、と手記に綴っている(「愛、深い淵より」p.132-133)。次のような詩がある。「よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったよりも 不幸せが集まった方が 愛に近いような気がする(星野富弘)」星野さんは1974年、12月のクリスマス礼拝で洗礼(バプテスマ)を受けておられる。彼に生きる希望を与えた救い主の誕生。天使は告げる。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)「大いなる喜び」であるイエス・キリストの誕生は、居場所がなく、世の中の末端に追いやられた人たちに真っ先に告げ知らされた。重荷を背負わされて弱くされ、自由を奪われた小さな人たちがキリストのもとに集められた。神がひとり一人のいのちを慈しみ、永遠の愛を与えるために。(2024.5.26)

風薫る5月。今年もペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えた。約2千年前のこの日、人を生かす命と恵みの風が吹いて教会が誕生した。聖霊に満たされた弟子たちは希望と勇気が与えられ、愛の力で世界中にキリストの福音を広めた。ペンテコステの日、炎のような舌が一人ひとりに留まり、集まっていた一同は聖霊に満たされ、他の国々の言語で話し出した。そして神の偉大な働きを語る内容が多様な言語で伝わった(使徒2:1-11参照)。神の言葉と言われる聖書(旧新約)は、現在736言語に翻訳され、分冊や聖書物語などを含めると3658言語に達している(世界ウィクリフ同盟WGA2023.9発表)。ルカによる福音書1章は「聖霊に満たされた人たち」が登場する。バプテスマのヨハネは胎児の時から聖霊に満たされ、その母エリザベトと父ザカリアも、共に聖霊に満たされ神を賛美した。「ベネディクトゥス」と呼ばれる聖霊に満たされたザカリアの賛歌は、ほぼ旧約聖書の内容の解き明かしである。聖書は聖霊の導きの下に書かれた(Ⅱテモテ3:16)。聖書において客観的に示されている神の愛と救いが主観的認識となるのは、実に聖霊の働きによるのだ。聖霊は今も働いてわれらを真理に導き、神の望まれる道へと招く。われらは「臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」(IIテモテ1:7)が与えられている」日々聖霊に満たされ、大いなる希望をもって神の望まれる道を歩もう。(2024.5.19)

「幸いだ。神の言葉が実現すると信じた人は」(ルカ1:55)とマリアを祝福するエリザベト。一方、夫である祭司ザカリアは、神の言葉が信じられない状況において、信じざるを得ない状況に置かれる。即ち、「口が利けなくなる」(ルカ1:20)という神の言葉が自分の身に実現したのだ。以来彼は、神の言葉の実現の時まで沈黙の中を過ごした。それは自分の人生を意のままに生きるのではなく、静まって神にすべて委ねる生き方、神の言葉にのみ心を向け、神を賛美する姿勢を整えた。家父長社会という聖書の時代、ルカ福音書では立場が逆転して男性が鳴りを顰め、女性たちの信仰や活躍に焦点があてられている。男性が沈黙させられ、社会的に沈黙させられていた女性たちが口を開いてよい言葉を交わし合い、神への賛美をささげている。神の言葉の通り、男児を出産したエリザベト。命名にあたっては父親が決定権を持つ伝統の中、女性であり母親となったエリザベトが「ヨハネ」と名付ける意思が表明される。女性の意見が通ることのない時代において、男性が女性の意見に賛同するという、これまでの伝統が崩されている。しかしその瞬間、ザカリヤは口が利けるようになり、神を賛美しはじめるのだ。本書では男性社会の伝統に対し、差別の中に苦しむ「はしため(奴隷)」のような人々の解放が告げられる。大きく歴史が動く転換期に、普段は表に出ない、むしろ社会的には見下されている人々を登場させ、偉大な神の働きのために必要不可欠な人物とされる物語を伝える。この世に平和をもたらすのは世の権力者とは限らない。小さな存在が、神への賛美が、世界を変えていくのだ。(2024.5.12)

ルカ福音書は多くの賛美を生み出した書である。バッハやヘンデルをはじめ多くの著名な作曲家たちによって礼拝で用いられてきた。「マグニフィカート」と呼ばれるこの賛歌は、本書に登場する最初の詩である。この詩はヘブライ的な詩の形式で構成されており、従来ならば自分を苦しめてきた敵や権力者に対する神の裁きや敵の滅亡などの「報復」を願う言葉が続くところである(サム上2:1-10,詩編等)。しかしそのパターンが崩されて「報復」ではなく、神の救いと憐れみが終始宣言されている。その意味で「革命的賛歌」である。この賛歌は抑圧からの解放、平和を希求する賛美として歌い継がれてきたのだ。聖書はわれらを賛美と喜びに招く。賛美には力があり、賛美は人生に革命をもたらしていく。賛美は自ら断ち切ることのできない憎悪の連鎖、負の雲霧を一掃させる爽やかな風となって、救いの喜びと感謝に取り囲まれる日々を整えていく。それはわれらの力ではなく、神の偉大な恵みの力がわれらの中に解放されるからだ。Iさんは、今では信じ難いが、かつて彼女には「笑顔」がなかったというのだ。けれども24年前、創造主である神の招きをご自分のこととして受け止めた時から、革命が起こったかのように神の恵みに気付く喜びの人生を歩み始められた。今もオルガン奏楽や生花を通して神を賛美し、喜びをもって教会に仕え、笑顔で皆さまを励ましておられる。(2024.5.5)

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