2024年度主題「神の望まれる道へ」

「笛吹けども踊らず」という慣用句があるが出典は「聖書」である。現代でいうなら、SNSでどんなによい情報を発信していてもフォローされない状態だ。最近はあらゆる番組や企業、お店や個人も「フォーロー」を求めてアピールしている。「フォロー」という言葉は、元来「ついていく」こと「後を追う」、という意味だが、支持すること、見守ること、支援を含む。イエスの時代、長年待ち望まれていたメシアが到来しているのに、人々はイエスをメシアと認めず、フォローしなかった。しかしルカによる福音書を読んでいくと、フォロワーとなっている側の存在に気付かされる。愛する一人息子を亡くした母親と出会い、断腸の思いで寄り添われるイエス。社会的に弱くされ、差別され、人権を奪われ、除け者にされていた人々、その人たちが葬式のように悲しい歌を歌っていてもだれも見向きもしない。声をあげてもだれも振り向いてくれない。そんな人たちが吹いている笛の音を、イエスが真っ先に聞いてそのあとを追い、真っ先にフォロワーとなっているのである。それは同時に、今を生きるわれらの、言葉にならないうめきの笛をイエスが聴いて、苦しみ孤独のなかにある者に寄り添い、共鳴されるだけではなく、確かな慰めと生きる希望と勇気を与えて共に歩まれるキリストの姿を伝えている。イエスはあなたの真のフォロワーだ。(2025.1.19)

「泥かぶら」という話。ある村に顔が泥まみれのように醜いため、「泥かぶら(泥んこ大根)」と呼ばれていた少女がいた。嘲笑の的となり意地悪をされる日々。「綺麗になりたい」と慟哭する彼女はある日、旅の老人に出会い美しくなる秘訣を教わる。①いつもニッコリ笑うこと②人の身になって思うこと③自分の顔を恥じないこと。この3つの言葉に生きようとする少女は時折、川面に映る自分の顔を見るが、全然変わらない。けれどもあきらめずに続け、何年も経過するうちに彼女は働く喜び、感謝される幸せを知る。いつしか彼女は優しさと思いやりのある心の美しい村一番の人気者になっていたという話だ。(作:真木美保)ルッキズム(外見至上主義)がSNSの普及と共に幅を利かせている現代、ビジュアルで勝負するのもよいが、見えないものにこそ目を注ぐ心の修練、それがどんなに他人との比較、嫉妬やコンプレックスからわれら自由にすることだろう。人が生きるのは、良くも悪くも言葉による。ルカ7章には「言葉」の権威に関連する共通記事がある。ひとつは、百人隊長の「言葉」への信頼。もう一つは主イエスの「言葉」の確実性だ。ヘブライでは「言葉」はそのまま「出来事」を意味した。神は言われた。「光あれ」こうして光が生じた。(創世記1:3)神の言葉にある生命、それは心の灯火、足元を照らす道の光。遠い未来は見通せないが確実に今日を歩み出す一歩を導く。人はパンのみで生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉により生きる。(マタイ4:4)

新年が良い年であるようにだれもが願う。良い年となるためには良い心で、良く生きる必要がある。良き言葉に触れることも大切だ。福音として伝えられる聖書のみことばを受け入れることは、良い実を結ぶ種となる。今年の箱根駅伝で連覇を達成した青山学院だが、創設に深く関わった人物に津田仙がいる。新五千円札の肖像、津田梅子の父でもある彼は、佐倉藩士の子として蘭語と英語を習得し、江戸幕府の通詞となる。1873年ウィーン万博で幾多もの言語に翻訳されている聖書に感嘆し、帰国後メソジスト教会で受洗した。彼は明治時代初期に農業改革者として西洋野菜の普及に尽力し、足尾銅山鉱毒事件では田中正造を助け、わが国におけるキリスト教諸学校の創設に貢献し、社会活動においても多くの良き実を結んだ一人である。ジョージ・ミューラーの説教によって真の信仰に目覚めたという津田仙は、何よりも日曜日の礼拝を重んじ、厳守したそうである。彼の良く生きる土台となったのは、聖書のみことばであったことだろう。みことばを行うことは一回が仕始めで、仕納め。「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と、ペトロは「これっきりですよ」と言わんばかりに主イエスの言葉に従った。すると夥しい恵み、みことばの確かさに出会った。一方、聞いても行わず倒れた家のたとえ(ルカ6:49)だが、これも良き福音とならないだろうか。なぜならわれらは本来、自分の力でみことばを行い得ない。しかし自分の力が倒壊した時こそ、神の救いが到来する。神の偉大な恵みの働きは、神の言葉に信頼するより他に何も頼るすべのない貧しさ、内村鑑三の言葉を借りれば「自己崩壊した人」にこそ発現する。けれどもその地盤には、救いの礎石が据えられ、堅固な土台となるのだ。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」イザヤ書40章8節(2025.1.5)

今年は病の中におかれている方々への祈りが絶えずささげられた。晴作昌英神父の「詩」を分かち合いたい。 *病気になったら どんどん泣こう 痛くて眠れないといって泣き 手術がこわいといって涙ぐみ 死にたくないよといって めそめそしよう 恥も外聞もいらない いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て かっこわるく涙をこぼそう...

「もうええでしょう!」今年話題となったドラマのセリフが流行語大賞にノミネートされた。12月8日は真珠湾攻撃が開始された日、太平洋戦争では310万人もの人々の命が奪われた。現代においてもなおウクライナで、ガサ地区で軍事作戦が続いている。「もうええでしょう!」と戦争休止を叫びたい。2009年1月、敵の砲撃によって3人の娘と姪の命が奪われたパレスチナの医師I. アブラエーシュさんは、翌日テレビカメラの前で憎しみではなく、共存について語った。「それでも私は憎まない」という自伝は国際的ベストセラーとなり映画化もされた。主イエスは言われる。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と。たとえ憎まないことができたとしても、敵を愛するのは人間にはできない。それは神のわざである。人種差別の只中でM.L.キング牧師は語った。「暗黒は暗黒を駆逐することはできず、ただ光だけができるのだ。憎しみは憎しみを駆逐することはできないのであって、ただ愛だけができるのである・・・我々は自分の敵を愛さなければならないほど、現代の世界の行き詰まりに直面しているのではないだろうか」(「汝の敵を愛せ」1965)主イエスはご自身を十字架につける敵さえも愛し抜かれたお方である。このお方を通してわれらは、神こそはまさに敵をも愛するお方だということを知る。神に敵対する人類に御子イエスが与えられた。このお方は今もなお十字架で敵のために祈り、とりなし続けるお方である。平和の君、イエス・キリストの誕生を待ち望むアドヴェントの時期、平和をつくりだす希望の小さな光を心に灯したい。(2024.12.8)

平地に立ち、弟子たちを「見上げて」語る主イエス。「上から目線」とは対照的な姿勢で語りかけるその姿は、ルカ福音書が伝える実に謙遜な一面である。価値の低いものを見る視線は下だが、価値を認める対象への眼差しは、往々にして下から見上げる目線ではないだろうか。主イエスは神の身分でありながら、へりくだって人々に仕える僕(しもべ)として地上を歩まれ、「幸いと不幸」を語られる。飢えを知る人は、食事する幸いを知っている。病む人は、健康のありがたみを知っている。愛する者と死別した人は、故人と一緒に過ごした幸いな日々を思い起こす。不幸を知らなければ、幸いは語れないのかもしれない。その意味で主イエスは、常に人間の苦しみや悲しみ、生きる悩みを知っておられた。このお方は、嘆きや悲しみで泣くしかない人たち、貧しい人たちといつも一緒におられた。正しいことをしているのに、憎まれる者の側に立たれた。主イエスがそのような人たちの立場におられ、その人たちの価値を高め、命まで惜しまず与えられたからこそ、私たちは主イエスと共に歩む道に幸いを見出すことができるのではないか。それは、物事が上手くいかないとか、苦しいとか、調子がわるいとかで引っ掛かる必要性はない、ということだ。そのようなことは当たり前のこととして、主イエスと共にあることを喜び、このお方で心を満たす日々にこそ、主イエスの語られる真の幸いの内実が見えてくるはずである。そこに人生の意味との出会いも備えられているのではないか。(2024.12.1)

小学校に入学した当初、同じ学校の上級生とのふれあい会があった。教室にゾロゾロと入って来たのは、すらっと背の高い6年生のお兄さんお姉さんたち。1年生になったばかりの小さな私にとっては、自分の背丈の倍はあるかのような巨人にうつる。固唾を飲みながらまるで高層ビルを見上げるような感覚でいると、私と目があったお兄さんが自分のところに近寄ってきてニコッと優しく声をかけてくれた。彼はその場にしゃがみこんだままの姿勢でずっと隣にいて一緒に絵を描いてくれたのを今も覚えている。主イエスは山を降りて「平らな所」に立たれた。山の頂や高い所ではなく、集まってきた人々と同じフラットな位置におられる。彼は、神の身分でありながら私たちと同じ人となり、私たちと同じところにいてくださる。威圧的に上からものを申すのでもなく、私たちと同じところにいる。生きることの悩み、苦しみ、痛みを同じように知る者として。(2024.11.24(日)-子ども祝福式-

主イエスは祈るために山に行かれ、祈りのうちにご自身の使命を見出された。祈ってから弟子たちを選ばれ、それ以降、弱さと欠けのある多様な面々の弟子たちに出会い、彼らをありのまま受けいれて共に歩み、最後まで愛し抜かれた。祈りが手段になるところでは、人間の願望達成が目的と成り下がる。祈りは手段ではなく目的である。その主要な目的は、人間を神に接近させることである。人間は不完全であるがゆえに、絶えず神に心を向けて祈るのでなければ、決して普遍的な正しさを維持することはできない。神を求めて祈り、その招きと御心に応じることによってのみ、われらはより高い次元で、神の協力者として立ち上がらされる。われらは祈りにおいて神を思索するのではなく、神を抽出する。われらは不完全さを常に知らされなければ傲慢となって感謝や恵みを見失ってしまう。しかしそこで神を求め、このお方を知ることによって、最後までわれらを愛し共に歩まれる神とその愛に出会うのである。神を知ることは人生の目的に通じているのだ。(2024.11.17)

聖書の戒めの底辺にあるのは個人の命の尊重。とりわけ弱くされた命に対する神の慈しみである。主イエスは何よりも目の前の命を優先し、大事にされた。「命のビザ」で知られる杉原千畝、彼は第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人狩から逃れてきた難民約6000人以上を救った。だが彼の手記によると一晩中、葛藤したようである。連日リトアニアの日本領事館にビザを求めて押し寄せる人たち。東京からの回答は「拒否せよ」。違反すれば昇進もなく処罰も免れない。だれもが政府に従うところ千畝は苦悶の末、ついに「命」を優先する。彼は、キリスト者として常に神に促された「愛と人道」の精神があった。「外交官としては間違ったかもしれないか、人間としては当然のことをした」と述懐している。「安息日」の戒めはユダヤのアイディンティティーと言われ、現在も安息日の規定がある。「安息日」は労働禁止であるが、「特例」がある。それは「人命救助」の場合だ。ユダヤでは現在も特例として救急車の出動などは許可される。しかし、「軍事行動」も特例という。律法の解釈を巡って本末転倒していたキリストの時代、今も主イエスの言葉がイスラエルに響く。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』ルカによる福音書6章9節(2024.11.10)

深まる秋、杜の都仙台では草木が紅葉し、色づくグラデーションの光景に思わず見惚れて足が止まる。芸術の秋、食欲の秋というが、この時期に堪能できる自然の恩恵に感謝しながら、何事もなく平穏な日常を過ごせることの有り難みを想う。季節も物事も変化に富み、世の中は目まぐるしく移り変わってゆく。何気ない誰かの言動によって心が穏やかでいられなくなったり、突然の事故や病を煩うと日常は一変する。落ち着こうとしても、なぜかコーヒーカップを持つ手が震え、動揺を抑えられない時、そばにいて平穏を取り戻す根拠を見出せるならどんなに心強いことだろう。よく発達した台風の中心には、台風の目と呼ばれる静寂な区域が生じている。暴風域にあってもその活動が中断される平穏な地帯が存在する。「安息日」は、「休み」「中断」を意味する動詞から派生した。主イエスは「安息日の主」として、われらが制御できない心の激しい荒波をも中断させて凪にし、落ち着きの場所を備えられる。詩編23編には、神と人間が羊飼いと羊に譬えられている。「主は羊飼い。・・わたしを青草の野に伏させ・・・正しい道に導き、魂を生き返らせてくださる。死の陰の谷を行く時も災いを恐れない・・・」主イエスは良い羊飼いとしてわれらと共におられる。荒れ狂う嵐のような試練の波におびえるような日にも安息の場に導き、たとえ揺らいでいてもしっかりとお支えくださる。われらはすべての恵みを備えて養われるこのお方に信頼し、平穏を生きる道にきょうも招かれている。(2024/11/3)

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