2022年度主題「希望によって歩む」

6月23日は沖縄での激戦が終結した日とされる。1945年太平洋戦争末期、沖縄では3ヶ月で県民の約4人1人が犠牲になった。青い空と珊瑚礁に囲まれた自然豊かな島で起こった凄惨な歴史は、今なお語り継がれる。もう二度と繰り返されないために・・・。主人公が沖縄出身のドラマ「ちむどんどん(「ドキドキする」の意味)」が現在放映中だが、「ちむぐりさ(肝苦りさ)」という沖縄の言葉がある。「かわいそう」に近い言葉だが異なり「あなたが悲しいとわたしも悲しい」という意味で使われる。上から目線ではなく相手の痛みを自分の事として胸を痛め、辛い思いをしている人と連帯する言葉だ。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)に通じる。本土復帰50周年の節目にあって沖縄の痛みに心を向けてほしい。日本にある軍事基地の約70%は沖縄に集中している。防衛費として膨大な税金が投入され南西諸島ではミサイル基地が次々に建設されている。有事になったら真っ先に攻撃対象となるのはどこか?「沖縄の問題」とされていないか?「ちむぐりさ」という共感性を取り戻したい。(2022/6/19)

北京冬季五輪で銀メダルに輝いたカーリング女子の吉田知奈美選手。試合後の会見では「チームで大事にしてきたのは『弱さの情報公開』」と語った。この言葉は当事者研究で知られている向谷地生良さんの言葉で、北海道にある「べてるの家」の活動理念のひとつである。彼女の座右の銘である「安心して絶望できる人生」もそうだ。向谷地さんは浦河教会の会員で、100人以上の精神的疾患を経験した当事者らに住まいと作業場を提供し、共同生活をしながら町おこしに貢献している。施設では「弱さ」は克服すべきもの、強さに向かうプロセスではない。「弱さ」そのものに意味があり、価値を見出す生き方を選び取る。「強さ」や「正しさ」に支配された価値観の中で「弱さ」に向き合い、それを公開して互いの絆にしていくこと。それが尊ばれるのである。吉田選手は「メンタルは強化しなくていい。弱さでつながっているチームだから」とも語った。試合前プレッシャーで弱音をはくメンバーに「もっと緊張していいよ」と声を掛け、自らも仲間を頼る。互いの弱さ隠さず共有することが大事にされた。使徒パウロは主によって「弱さ」の中にある恵みに気付かされ、「弱さ」「無力さ」の価値を見出すに至った。彼も弱さの情報公開者である。教会も「強さ」を披瀝し合うのではなく、弱さを誇り繋がる群れである。(2022/6/12)

聖書(旧新約)の翻訳言語数は717言語。聖書の一部や分冊、手話言語等を含めると3495言語に達したとの報告がある(出典:世界ウィクリフ同盟2021.9月)。実に多様な言語に今も神の言葉が伝えられている。「星の王子さま」「ピノキオ」等のベストセラーでさえ翻訳は300言語に満たない事からも唯一無二の書だ。現在、聖書翻訳プロジェクトが進行中の言語数は2217言語、将来的には更に1892の言語に訳される必要があるという(出典:Wycliffe Bible Translators)。五巡祭(ペンテコステ)は、ユダヤではシナイ山にてモーセが神の言葉を授かった記念日でもあった。ペンテコステの日に降った約束の聖霊。そこに集まっていたあらゆる地方の人々は、各人の故郷の話す多様な言葉で神の偉大な業を聞いた(使徒2:11)。聖霊の風は今も吹いて実に多様な人々に、多様な方法で神の愛と言葉を伝え、希望を与え続けている。(2022.6.5:ペンテコステ礼拝)

今年は三浦綾子生誕100周年となる。彼女は教員時代、軍国主義教育に熱心であったが敗戦後、教科書の黒塗り作業に虚無感を抱き教壇を去った。24歳の時、結婚を目前に肺結核を発症し婚約は解消。生きる意義を見出せず自暴自棄になって入水自殺を試みるが叶わず、更に脊椎カリエスを併発し絶対安静、絶望の日々となる。その頃、幼なじみの前川を通してキリスト信仰が与えられた。以降彼女は神の愛に希望を抱き、伝道目的で執筆活動に入る。出世作「氷点」は、長寿番組「笑点」の命名に影響を与えるほど旋風を巻き起こし何度もドラマ化された。自ら病気のデパートと称しながら「こんな病気ばかりしているわたしは、もしかしたら神様にえこひいきされているのではないか」と病気を悲観的にとらえず、絶望を見つめた先で出会った神の愛によって多くの作品を生み出し、彼女の抱く希望は実に広く波及した。星野富弘さんは事故で首から下を動かせなくなって絶望の淵にいた時、聖書と三浦綾子の「塩狩峠」を読み希望を得たという。口で筆を加えて見事な絵画と詩を書き、今も人々に希望を与え続けている。「私の小説も随筆も、絶望を希望に変えることのできる神様を示したいからです。」(三浦綾子「愛すること生きること」より)われらの抱く希望は、絶望から希望を生み出す恵みの連鎖となっていく。(2022/5/29)

東北学院初代院長である押川方義は、仙台を拠点に古川、岩沼、石巻に相次いで教会を設立。大望を抱き、日本の伝道は日本人の手でという信念から仙台神学校(現:東北学院)を開校した。第1期生に島貫平太夫がいる。彼はキリスト教を排撃する目的で研究するが、逆に感銘を受け熱心な信者となった。後に牧師となり「日本力行会」の創始者となった。当初から苦学生の世話をし、教会で開かれている日曜学校の教師をしていた島貫は、当時「笑わない子」として知られていた星良を妹のように面倒を見て、彼女を「アンビシャスガール(大望の少女)」と呼んだ。後の「相馬黒光」である。島貫に紹介されたクリスチャンの相馬愛蔵と結婚した彼女は新宿でパン屋を営む。今もある中村屋だ。元祖クリームパンは相馬夫妻の発案と言われる。今から136年前、大望に抱かれるように始まった伝道。神は御心のままに志を起こさせ、実現に至らせる(フィリピ2:13)。神のわれらへの望み、そのスケールは大きい。心が挫けて萎縮し迷う時にも、神は偉大な志をもってわれらの心を押し広げ、その栄光をあらわされる。(2022/5/22)

「紡ぐ」という行為は、綿や繭から糸状の繊維を引き出し、ひねったり絡めたりして一本の紐にする作業である。希望もまた、細い糸のような信仰が引き出されて撚りにかけられ、つなぎ合わされていくようなものである。苦難は忍耐を引き出し、練達として折重なり、希望を生み出すという。喜び、痛みや悲しみ。一見つながりのない混沌としている出来事もすべてが撚り合わされ、ひとつの希望の綱となって神の愛へと引き寄せられていく。それは希望の源である主イエスがわれらと共に歩み、希望を紡いでくださるからだ。希望はわれらを欺かない。神のご計画によって召された者たちのためには一切が益とされ、無駄ではないことを知るのだ。(2022/5/15)

Mさんはかつてキリスト教学校で学んだが、卒業式の日に「聖書」を封印。神の言葉を排除し、自らの価値観で得られる道を選んだ。結婚をして育児をしながら幸せに生き、家族の幸せのためには努力を惜しまなかった。指導力のある姑との関係に悩んで心身の健康を崩しても、カウンセリングを受けて自ら立ち直った。自分と家族の幸せを保証したいと欲求はエスカレート。だがいつも何かが欠けていたという。得られた情報に振り回され、何が真実か求めていたある日。家事をしながらふと、排除したはずの神の言葉を思い起こし、教会へと足を運んだ。虚無感にとらわれる日々、足りない最後の一つが見つからないのではなく、もっとも必要な一つの事に気付かされた。再び聖書を手にしたMさんは主イエス・キリストを求めて生きる道に新しい命と望み、力を得た。・・瓦礫の中、鷲がじっと上を凝視している。一瞬身を縮めたかと思うとスパーンと大きな翼を広げて空高く舞い上がって行った。鷲は何を待っていたのだろう?風を待っていたのだ。気流に乗った鷲は、大空を自由に優雅に羽ばたいている。自らの力を落とした時に、疲れ果て望みが絶たれたかに思うその先で出会う恵みがある。それは、主を待ち望む者に与えられる新しい力である。われらも主を待ち望む時、失意や嘆きの先に神が用意される自由で喜びの場所へと運ばれる。信頼の翼を広げて恵みの気流に乗り、本来向かうべき場所に運ばれていくのだ。(2022/5/1)

「74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろっている」(2020年出版:すばる舎)には、著者ミツコさんの日常にある幸せが綴られている。帯には「月7万円の年金暮らしでこんなに明るいひとり老後」とある。老後資金に2000万円必要という試算が発表された後だけに目を引く。著者は元牧師。経済的課題の中でも豊かに生き、「幸い」を見出せるのは、何よりも今も神との関係に生きているからだと思う。人は誰もが幸いを求めて生きている。他人との比較による優劣、物質や余暇、財産や名誉から得られる幸福感は一時的なもので永続しない。ゆえに虚しくもなる。主イエスは、「心の貧しい人々の幸い」を説かれた。原語では「霊の貧しい」という意味で、神との関係における自分自身の弱さ乏しさを含んでいる。心砕け、頼るのは神のみであると信じて生きる。神に祈り、神にすべてを委ねて明け渡し、神を賛美し礼拝するのは、自らの豊かさではなく貧しさゆえである。しかし、そのように神ご自身を求め、待望して生きる道にこそ、天の国(神のお取り仕切り)があらわされ、神の偉大な力と恵みを知るのである。そこでは全部そろっている。朽ちず錆びない宝が備えられており、永続する「幸い」があるのだ 。」(2022/4/24)

「主は復活された!」と、伝えられて約2000年。なぜ、この言葉が今も虚しくならず世界中で告げられるのか?群れから離れ、暗い顔つきでエマオへ向かう二人の弟子。彼らは大きな期待が失望に終わって自信も揺らいでしまい、失意のうちにもう弟子をやめる道を歩んでいたのかも知れない。けれども、その二人に復活の主は歩み寄って声を掛けられ、それとわからない姿で彼らに伴っておられた・・・。われらも失意を経験する時、顔を曇らせながら希望を手放し、心落ち込むまま道を歩んでしまう事がある。目指すべき望みに未だ到達し得ないエマオの途上を歩んでいる。しかし、復活の主イエスが歩み寄って一緒におられる。大概われらは自らの歩みを振り返る時、主が共に歩んでおられた、と後になって気付くのだ。聖書のみ言葉や意味の解き明かし、十字架と復活の証言を聞く時、なぜか引き込まれ、心燃やされる時がある。自分で獲得しようと躍起になっていた時ではなく、自らの力が抜け切った時に不思議に力や勇気が与えられる。復活の主イエスに捉えられ、希望の方からわれらに近付いているからだ。(2022/4/17(日)

主イエスは十字架の前夜、自ら主の晩餐を制定された。「聖餐式」とも呼ばれているが、バプテストは「主の晩餐(式)」と呼ぶことを通例として来た。「聖職者」なども「教役者」と呼ぶのは、「聖」とされる対象を人間や制度に付与する事を避け、ただ主イエスを告白し、このお方を待望する信仰に由来する。世界は今、コロナの終息のみならず、ウクライナ・ロシアの終戦を待望している。どんなに聖人君子と呼ばれるような人物であっても神ではないのであり、本質的には不完全さを宿している。一人の人間に権力が集中してしまえば戦争という過ちが起きてしまう歴史を人類は負っている。いかなる人間の権威も、大切にされる礼典や儀式もキリスト御自身に取って代わるものはない。それはイエス・キリストを指し示すものであるがゆえにシンボル(象徴)である。ゆえに救い主を待望せずにはいられない。なぜ、愚かにも人類は同じ過ちを繰り返すのか。われらは人類を罪から救い、真の平和をもたらすキリストを告白し、主イエスの十字架の死を告げ知らせる。同時に主イエス・キリストの御国(支配)を待ち望む。主よ、御国を来らせ給え。(2022/4/10)

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