2022年度主題「希望によって歩む」

生老病死とは、われらが生きる限り避けられない根源的な苦悩を意味するという。人生は思い通りにはならず大半は苦悩の連続だ。登山でいえば一山越えるとまたその先に山が見え、それを越えるとまた次のいくつかの険しい山々が続いているかに思える。使徒パウロも現にある「苦しみ」から語りはじめる。しかし、心にあるうめきや苦悩を受け入れつつも同時に「希望」を語っている。105歳まで生きた日野原重明医師は、著作や講演の中で老いても自分の時間(いのち)を誰とどう使うかを問い掛けつつ、小さなものであってもビジョンや希望を抱いて生きる秘訣を語っておられた。エリザベス女王の国葬(9/19)では女王の愛唱歌であった詩編23編の讃美歌が歌われ、トラス首相によってキリストの言葉(ヨハネ14:1-9)が朗読された。大司教の言葉や祈りはローマ書8:35,38の言葉が引用されるなど、希望の言葉にあふれた礼拝であった。避けられない苦悩はあるが、神の愛や希望もわれらを避ける事はない。(2022/9/25)

宗教改革者ルター作のコラール「神はわがやぐら」(新生讃美歌538番)は詩編46編がベースとなっている。14世紀の欧州では人口の3分の1が死滅したと言われるペスト。この恐ろしい感染症は16世紀にも再び猛威を振っていたという。多くの人々が安全な場所を求めて逃れていくも、ルターは自らの責務を果たすため町に残らざるを得なかった・・。天変地異に見舞われても自分が置かれた地で、委ねられた使命を覚えつつ、彼はこの詩編の言葉のように神を逃れ場として、神と共に日常を歩んだ。詩編にはわれらが思いを向けるべき神への言葉に満ちている。「神は逃れ場・・。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。われらは決して恐れない」(詩編46:1-3)今日も神への信頼を込めて祈ろう。(2022.9.11)

第104回全国高校野球選手権では仙台育英高校が初優勝。「100年開かなかった扉が開いたので、多くの人の顔が浮かびました・・」と須江監督。自分たちだけではなく、全国の高校生を激励するインタビューは多くの人の心に響いた。青春は密なるもの。コロナによって多くの試合が消え、文化祭、修学旅行などすべての活動にストップがかかった青春。日常生活が狭められた時代を過ごした世代にとって、長い期間「開かなった扉が開いた」という喜びが象徴的に思えた。われらは辛く苦しい思いを抱えながら生きづらさの道を歩む時期がある。それは細くて狭く通ることが困難な道。不安と恐れに身が縮こまるような状態で出口を求めてもがいている。しかし、われらはその「狭い門」にて主イエスと出会う。彼はその出生から十字架の死に至るまで生きづらさの狭き道を歩まれた。そして復活によって誰も開くことのなかった希望の門、救いの扉が開かれたのだ。信仰とは密なるもの。主イエスとつながる密着こそ救いなのだ。主イエスのもとでは多くの人々の笑顔が浮かぶ・・・。(2022.9.4)

「一番大切な事は、目に見えない」世界中で愛される「星の王子様」の一節。作者のサン=テグジュペリはパイロットとして砂漠に不時着した経験を持つ。生死をさまよう経験のなかで彼が知った一番大切なこと。それは目には見えなくとも何処かに隠されている希望だったのかも知れない。「御国を来たらせたまえ」とわれらは祈るが、「神の国は見えるものではなく、われらの間にある」と主イエスは言う。希望や神の国が見えないのは、きっとわれらが何処でも誰とでも「繋がっているため」であり、求め合う交わりのなかに「宝」が隠れているからなのかも知れない。愛するものの存在は、世の中の見方を変える力がある。「あたり一面何も見えない、何も聞こえない。それでもその静寂にあって何かがひっそりひかっている・・。」(河野万里子訳・新潮文庫p.116)希望はどこかに隠れていても、われらを照らしている。心の目を凝らすと砂漠のように枯渇し、潤いのない日々にさえ美しさが見えて来る。目に見えるものに対する希望は希望ではない。主イエスを信じて求め神の国を待ち望む。そのために費やす時間、忍耐の分だけかけがえのない宝となる。そこで出会うのはわれらを歓喜につなぐ永遠の絆なのだ。(2022.8.28)

「可愛い1年性」という投稿。「小学校で教員をしている。体育の授業で転んでしまった1年生にばんそうこうを貼ってあげた。放課後学童保育などに寄るか確認したくて『今日はまっすぐ帰る?』と聞くと、泣きながら『いいえ、ちょっと曲がります』。(川崎市・曲がらなきゃ帰れないものね・42歳)出典:朝日新聞土曜日版be」ピュアな応答に心がホッコリする。ロシア軍によるウクライナ侵攻から半年。終戦という着地点は未だ遠い。まっすぐ帰りたいが紆余曲折。目指すべき平和の道のりまで幾つ角を曲がらねばならないだろうか?「殺し」「姦淫」「盗み」「偽証」「むさぼり」戦争は神の言葉を曲げ、これらを正当化しようとする。戦時下で最初に犠牲になるのは「真実」だ。「主は平和を宣言される。ご自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かな振る舞いに戻らないように」(詩編85:9)今も神はわれらを平和の道へとまっすぐ招く。(2022/8/21)

物事は順風満帆にはいかないもの。ゆえに「プランB」など次善策は必須だ。人間が想定し得る希望の保険なるもの、その総称が「プランB」だとするならば、代理プランはいくらあってもキリがない。近年はVUCAの時代と呼ばれる。頭文字である「変動性Volatility」「不確実性Uncertainty」「複雑性Complexity」「曖昧性Ambiguity」を指しており、従来の常識、方法や手段がこれらの要素によって通用せず、将来予測が不能な時代なのだ・・・。完璧な代替案や計画などはない。絶対は神の領域である。だが、その絶対領域の中で神のプランが存在するという。預言者エレミヤは将来への希望が総崩れになった民に、「将来と希望を与える」神の計画があることを告げた(エレ29:11)。パウロもまた、神のご計画のもとでは万事が益とされ、一切が良い方向へと働くという確信を語っている(ロマ8:28)。たとえわれらの計画が破綻し、望みが絶たれたとしても、神の恵みのプランは前進する。どんなに将来が不確実で予測不能であろうとも、主イエスとつながり、彼と共に歩む者にとっては、すべてが無駄とならず希望として紡がれていく。「恵み(χάρις)」も「キリスト(Χριστός)」も、ギリシア語の頭文字は「X(カイ)」である。この神のプランはわれらを恵みから恵みへ、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえ、(ロマ8:29/Ⅱコリ3:18)。神の愛のうちに御子の姿に似る者とされていく(ロマ8:29)。この希望はわれらを欺かない。(2022/8/7)

「自然は第二の聖書」と説く「スコラ学(School「学校」と同じ語源)」を継承していたガリレオ・ガリレイ。彼は、自然界の諸現象が「数学」の言葉で書かれていると想定し、神の作品である壮大な宇宙、この書物にある真理を数学的法則で解釈するという近代科学の方法論を確立した。聖書を読むにはラテン語を学ばねばならない時代、彼は聖書と自然は共に神の言葉に由来すると尊びつつも、聖書を字義通りに解釈する立場から生じた当時の教義(天動説)を鵜呑みにできず、観察、実験を通して検証を重ね、仮説を立証するという「信仰」と「理性」の観点から神の偉大さを伝えた・・・。  現代で起こる様々な事象、手に負えないような諸問題が連続する時には「考える事(理性)」を放棄したくなる。言語化できない苦悩は、われらを思考停止へと誘う。心が弱ると何でも無批判に受け入れてしまい、占いやカルト的極端な教義であっても「おかしい」とか「変だ」と考える余裕も奪われるほど洗脳されてしまう事例が現にある。自然や周囲の出来事は偶然で意味のない類ではなく、聖書では「神の言葉」と同義だ。天は神の栄光を物語り、大自然が数学的な言語で書かれている神の言葉であるとするならば、われらの眼前にある困難、試練、患難さえも「神の愛」を物語る恵みの言語として記され、われらに希望を伝えているはずである。(2022.7.31)

今月初頭に発生した携帯大手会社の大規模通信障害では3000万人以上が影響を受けた。先日はビジネス向け交流アプリ通信トラブルによって会議ができず、復旧を巡ってSNSでもつぶやきが相次いだ。「つながらない」という事態に接する際の労力や心の負担は相当に大きい。コロナとの共生の時代、集まる事の困難さに直面し、何かの手段で「つながる」重要性を認識したと同時に、「つながって」いなければ何も出来ないような場面にも会う。主イエスはご自身をぶどうの木、われらを枝にたとえられた。ぶどうの木は大木ではいが、下へと根を張って結実のため必要な養分を枝に配給する。枝に求められているのは「つながっている」事であって、何らかのトラブルやその原因について自力で解消に努める役割はない。われらは主イエスに「つながっている」者とされ、誰も孤立する事なく、神の愛を受ける者とされた。ゆえに「つながっていない」事に対する諦め、焦りや苛立ちから解消されている。既に恵みのつながりの中に生かされ、豊かな実を結ぶ事が約束されているのだ。同じく枝としてつながっている他者と互いに連帯し、厳しい現実を前にしても主の愛のもとで、共に望みを抱いて歩む者とされている。(2022.7.24)

カルト教団に特徴的なのは、信徒と指導者の間にある序列の構図であり、その組織力である。バプテストの教会は政教分離の立場を重視し、運営は民主主義を選び取る「信徒の教会」と言われる。牧師も信徒の一人であり、礼拝と牧会の専従者にすぎない。教会は指導力や組織力、教化訓練など支配力を追求すべきでない。それはハラスメントの温床となり得る。われらには階級も序列も修行などの訓練もない。ゆえに、隙だらけでゆるい組織かも知れない。それは、一人ひとり固有の人格的存在として大切にされることを重んじるからだ。むしろ隙のない組織は危険なようにさえ思う。個性や多様性が失われ、どこか閉鎖的で抜け道がなくなる。隙はあるが「風通しの良い教会」でありたい。献金したり、熱心に学ぶから愛され、救われるのではない。ひとり一人ありのままで既に神の愛を受けている。息苦しさが一新され、恐れが締め出されるような爽やかな風を受けつつ、聖霊の風に導かれるまま歩む群れでありたい。(2022.7.17)

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから・・・。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから・・・。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから・・・。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった・・・。」(マルティン・ニーメラー)牧師であったニーメラーの内には、教会はアドルフ・ヒトラーとその追従者らにイエスの福音を伝えたのか?との痛恨が宿っていた。福音宣教の使命を果たすべき教会の責任・・。 先日は仙台で刃物をもった人物が「刑務所に入りたかった」という理由で中学生を襲撃。さらに、前首相が銃弾で打たれるという選挙中の凶行報道に誰もが耳を疑った。五一五事件や二二六事件以降、わが国は戦争へと突入した。これらの様々な事件や出来事は、急速に今後の将来を決定付ける重大な転機にもなりかねない。今日は宣教開始56周年記念日である。時代は変わろうと、如何なる時も粛々と神の言葉と福音を宣べ伝える群れでありたい。(2022/7/10)

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