2022年度主題「希望によって歩む」

金銀を求める生まれつき足の不自由な物乞いに、「ないものはない」と告げるペトロ。しかし、「あるものをあげよう」と差し出されたのは主イエスの「名」であった。その名によってこの人は自らの足で立ち、歩くようになる(使徒3:1-10)。彼にとって真に必要なものが与えられたのだ。「ないものはない」。「無い」のでは仕方ない。という諦めを促す否定の言葉も、「無い」もの「否定」と見れば、「すべてある」の意味になる。「偉大なことを成すため強さを神に求めたが、謙遜を学ぶよう弱さを授かった。健康を求めたのに、より良きことをするよう病気を授かった。幸せになるよう富を求めたが、知恵を使うよう貧困を授かった・・・求めたものは何一つ与えられなかったが、祈りはすべて聞き届けられた。わたしは誰よりも豊かに祝福されたのだ」(病者の祈り:作者不詳)この詩では、望んだものが与えられていないように思える。しかし、神に求めた一切のものを得ていた、との気付きがある。祈りの本質は、主の御名を呼ぶ事。かつて「わたしは在る」とその御名を告げた神は、常に共におられたお方であり、昨日も今日も、未来にも変わらず共におられる(存在する)お方である。そしてイエスの名は「主は救い」という意味である。「主を呼び求める者は皆、救われる」という約束は今もこれからも永遠に、真実であり続ける。(2023.1.22)

戦乱と干ばつに苦しむアフガニスタンで、36年間にわたり人道支援を続けた中村哲さん。彼が銃弾に倒れてから3年が過ぎた。「人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。少なくとも私は「カネさえあれば何でもできて幸せになる」という迷信、「武力さえあれば身が守られる」という妄信から自由である。・・・今大人たちが唱える「改革」や「進歩」の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。だまされてはいけない。「王様は裸だ」と叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供であった。それを次世代に期待する。」(中村哲『天、共に在りアフガニスタン三十年の闘い』NHK出版p.245-246)今も彼の言葉がよみがえる。主イエスは荒れ野の誘惑において目先の必要に迫られながらも、安易な手段で得ることを望まず、人を真に生かしめているものは何かを示された。最期は十字架から降りることも望まず死なれた主イエス。しかし神は彼を復活させられた。目先の必要とその利益だけに心奪われ、本当に重要な必要を見失いそうな誘いは今も威力を増してわれらを試みる。容易な手段ばかりに心を向けず、神の言葉に信頼して生きる者に約束された希望を見出したい。(2023.1.15)

災害や不幸は悪人に狙いを定めて起きているわけではなく、善良な人物にも無秩序(ランダム)に訪れる。神は混沌とした世界に手を伸べられ、光と闇をわけられた。光を「よし」とし、闇を「悪」とされたのではない。闇を「夜」と呼ばれた。創世記にある「創造(バーラー)」とは、無秩序な状態を整理し、秩序を与える意味がある。もし、幸いのみ享受するのが神信仰なら、今不幸にある者は見捨てられし事実に煩悶するしかない。十字架のキリスト、闇の絶叫。そこには神を信じつつ神に見捨てられ、なお神に叫ぶという矛盾、無信仰の信仰をみる。人間だけがこの矛盾性を生きることができる霊的存在であり、そこに宗教的意識と神信仰が生まれる根源がある。孤独の闇に放り出されても、「あなたは独りではない」と耳元で小さくとも確かに響く声がある。「神も仏もあるか!」と絶望の淵にあっても、その下から「だいじょうぶ」と力強い掛け声がする。見失いそうでもどこかで輝く微かな「光」が、「夜明けが来る、まだ希望がある」と自分に語りかけている。そう信じて生きること。換言すれば、それが神を信じるということなのである。人間的な尺度を超え、原因不明の偶発的な闇や苦悩さえも肯定し、ありのままでその存在意義を深め、人生の混沌を整理し、秩序付けられる神が共におられる。そこに新たな恵みの発見があり、幸いと確かな希望が生まれるのだ。(2023.1.8)

「門松や 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし(正月の飾り付けの度に死が近づく。浮かれてばかりいられない)」と一休は句を詠んだ。年末の「徹子の部屋」に出演したタモリさん。どんな年になるか?との問いに「新しい戦前になるのでは・・」と答えて話題となった。防衛費増額、敵基地攻撃能力など戦争に近づくかもしれない年への危機感に呼応するかのようだ。初詣や縁起物を求めて伝統行事に勤しむ人々・・。新年は誰もが幸せを願う。詩編51編の詩人は、儀式が人を幸せにするわけではない、と気付いた一人だ。詩人は形式ではなく、内実の伴った真心をもって神への背きに対する罪の深い自覚と向き合いつつ、赦しを求めて祈りをささげ、心機一転、再出発へと向かう。2023年の始まり。われらは、天から降って来られた主イエス・キリストを迎え、恵みの門を通る。十字架によって差し出されている赦しを受け取って心機一転、新たな一歩を踏み出す。主は良き羊飼いとして今年も共におられる。たとえ死の陰の谷を歩む時も災いを恐れない。命ある限り恵みと慈しみが後を追ってくる(詩23)。われらは常に<新しい恵みの前>を生かされるのだ。(2023.1.1)

短日極まる冬至。冬が終わり春の始まりを告げる節目を迎えた。救い主の誕生を告知する天使は、「恐れ」を終わらせ、「喜び」の始まりを告げる(ルカ2:10)。かたや新しい王の誕生に不安を抱いたヘロデ王は、メシアの登場を阻止しようと2歳以下の幼児虐殺という暴挙を振るう。ベツレヘムに響く天使の言葉が空疎に思える。しかし、恐れの闇を深くする悪政のもとでも、神は「思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き下ろされ、低き者を高められる」(ルカ1:52)。権力者の暴政はいつかそれ自体に破滅をもたらす。ヘロデ王の道は閉ざされ、救い主イエスは平和の君として公生涯へと向かわれる。第二次世界大戦中、ボンフェッファーはヒトラーを倒す抵抗運動に失敗し絞首刑となった。「これが私の終わりである。しかし、主にあっては新たな始まりである」との言葉を残して・・・。2022年は歴史的転換期に突入した。一度始まると止める事が困難な戦争。正義と真実が踏みにじられている現実が今もある。主イエスはいつの時代にあっても「剣(武器)を取る者は剣(武器)で滅びる」と平和を望んでおられる。われらは終わりと始まりの間にあって今何を選び取るべきか問われる。独裁者の暴力が支配する暗黒の時代にあっても、救い主のもとでは常に新しい希望が始まっていると信じたい。(2022.12.25)

「頭痛が痛い」は二重表現。「サハラ砂漠」は外国語と日本語の意味が重複している。「サハラ」はアラビア語で「砂漠」を意味するからだ。「クリスマス」は「キリスト・ミサ(礼拝)」の意味であるから、教会で使われる「クリスマス礼拝」という言葉は、厳密には「キリスト・ミサ・礼拝」。あえて邦訳するなら「救い主・礼拝・礼拝」と二重表現となる?!だが、「びっくり仰天」のように同じ意味が重なって強調される用法もある事から、「礼拝」を強調する意味で「クリスマス礼拝」としても、日本語では理解を強めるために必要な表現であろうと思う。砂漠を越え東方から来訪した「占星術の学者」。原語は「マゴス」。英語で言う「Magic」の語源との説もある。聖書では「魔術」や「占い」はご法度とされ、厳しい態度を否めない。しかし、救い主の誕生に際し、真心からの礼拝をささげているのは彼らなのだ。占星術の学者らは喜びにあふれ、宝物の箱を開けて幼子イエスを礼拝する。彼らは救い主を前にそれまで大切にしていた商売道具を手放したのかも知れない。博士たちは今までとは別の道を通って帰国し、新しい歩みを始めた。それは神の言葉に従う道であった。救い主は正しい者を招くためではなく、罪人を招くために生まれた。主イエスは特定の人々だけではなく、部外者とされる者、遠くにいる者も近くの者も全世界の救い主として、すべての人々を礼拝へと招いておられるのである。(2022.12.18)

静かに喜びの到来を待つアドベント(待降節)。ルカ福音書1章のザカリアとエリザベトの物語は、静けさが喜びと救いへの道備をする役割をしている。家父長社会で女性は「静かに」させられ、抑圧されている。一方、社会的に優位な男性が口が利けなくなり、神の言葉が実現するまで「静かに」されている。老いて望みを失い「静かな」老夫婦に喜びが到来する。「ヨハネ」と命名しなければならないという妻の意思が尊重されたところで、夫ザカリアの口が解かれ、神を賛美しはじめる。この出来事が象徴するように、本書は男性社会の伝統に挑戦し、差別の中に苦しむ女性や弱さの中にある人々の解放を記す。今年は「宗教2世」という言葉が流行語大賞の候補となり、強制的に信仰を押し付けられて苦しむ者の存在が世に訴えられた。ヨハネは祭司の子として、伝統的にユダヤの宗教を受け継ぐ運命にあった。親としても後継を授かった事で家が途絶えず、名誉が回復されるはずであった。しかし、この夫婦はその枠から子を自由にする。ヨハネは後に偉大な預言者となり、保身や利権に左右されずに世直しをする革命家となる。荒野という静寂の場から叫声をあげ、待ち望まれた救い主を指し示す道備えをする者となった。神の救いは自らの力を静める時にこそ意義を持つ。神の言葉の真実さを思い巡らし、黙して時を待つのだ。待降節の静かさは喜びと解放への序章である。(2022.12.4)

「自分の事は自分がよく知っている」と人は言う。詩編139編の詩人はそれ以上に、創造主である神が自分を知り尽くしておられる事に心を向ける。座るのも立つのも知り、語る前に一切を熟知しておられる。何処へ行こうとも先回りしてそこにおられ、振り返っても人生のすべての道に伴っておられる。5節には「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置く」とあるが、「御手」は「掌」の意味である。怒りや暴力の象徴である「拳」ではなく、祝福と慰めの象徴である抱擁、愛に抱かれている人生への気付きである。山田火砂子監督の新作映画「われ弱ければ〜矢嶋楫子伝」では、楫子をミッションスクールの校長に抜擢したツルー宣教師とのエピソードが描かれる。過失により校内でボヤ騒ぎを起こした楫子の責任問題を追求されるべきところ、ツルー宣教師は彼女を責めるのではなく、抱擁をもって彼女を包んでいく。愛に抱かれた楫子は1879年に信徒となり、極端な男尊女卑の差別社会にあってキリスト教精神に基づいた女子教育に尽くし、女性解放運動の先駆者となった。90歳の時には米国で軍縮会議に出席し、世界平和を強く訴えている。アドヴェントを迎え、今週から世界バプテスト祈祷週間に入った。世界の諸課題を覚えて愛と平和を祈ろう。(2022/12/4)

読書の秋。聖書は「神が語る約束は必ず実現される」という証言の集大成だ。信仰の父と呼ばれるアブラハムだが、彼はスンナリと神の約束を信じきれた訳ではない。創世記を読むと彼は自己保身のために同じ過ちを繰り返している。神の約束による希望より、目前に迫る現実的脅威を恐れたのだろうか・・。希望が示されても、全面的に信じきれないのは、われらも同じだ。キリスト信仰は本質的に希望である。「なおも望みを抱いて」(18節)とあるが、希望とは方向転換のわざである。いつの時代でもわれらを取り巻く現実は喜びや感謝を奪い、生活不安や将来を懸念させる方向へ招く。ゆえに最悪なものを見ようとする心を転換し、何度でも希望に立ち帰らねばならない。18節は原文によれば「希望に反して希望において信じた」という二律背反だ。目の前の現実と望みとが矛盾なく一致しているから信じるというのは、聖書の語る希望ではない(ローマ8:24)。なおも望みを抱く事は、現実から目を逸らす事でもない。目前に仁王立ちする現実を直視しつつも、神の約束の言葉の真実さに心を向ける事。たとえ微かであっても針の穴のような隙間から圧倒的な神の言葉の真実が事柄を起こすのである。われらはいつ、如何なる時でも「なおも望みを抱いて、信じる」この希望に招かれているのだ。希望はわれらを欺かない。

「きりかぶのともだち」(作:なかやみか)という絵本がある。喧嘩ばかりでもやっぱり誰かが側にいてくれた方がよいのかな?と考えさせてくれる。「友」はいつも親しく関わる相手。常に仲が良く気が合う関係とは限らない・・・。悩み労苦する相手でも共存することで自分を助け起こす存在となり得る。鰯は天敵から身を守るように群れをなして泳ぐ。時に「イワシトルネード」と呼ばれる姿を形作り、鱗を煌めかせながら自由自在に俊敏に美しく回遊する。ある水族館に異変が起こった。群れから離脱してダラダラと泳ぎだす鰯が目立つようになり、人々を魅了し脚光を浴びていたイワシトルネードが崩壊の危機にあったのだ。飼育員が天敵のクロマグロを投入すると鰯は覚醒したのか、本来の一糸乱れぬ回遊魚としての生態系を取り戻し、再び来館者らの歓声を呼んだという。一緒にいたいと思いわない存在、自分を悩ます相手との共存が本来の生き方や使命を取り戻すことがある。神は真実なお方であるから耐えられない試練は与えない。反目し合う友がいても、もう一人、「真実な友」主イエスが一緒におられる。三よりの糸は切れにくい。教会という群れは、祈りの鱗を煌めかせながら本来の使命に生かされていく。(2022/11/13)

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