2023年度主題「顔と顔を合わせて〜信仰・希望・愛を抱きつつ」

オックスフォード大学(英国)は、現存する大学では世界で3番目に古く、常にトップレベルを保つ名門大学だ。2023年世界大学ランキングでも7年連続1位を獲得している(THE2023)。紋章にはラテン語で次の言葉が刻まれている。「Dominus illuminatio...

キリストは飼い葉桶に寝かされたが、童話の王様アンデルセンは棺桶に寝かされた。家は貧しく、譲り受けた棺桶でベッドが作られたのだ。いじめや差別を受けた青春時代、幾度も失恋の苦悩を味わい、誰とも結ばれなかった。父方の家系は精神的な病いを患う傾向があり、祖父も父も晩年に発病し亡くなっている。アンデルセンは将来自分も遺伝するのでは?と不安を覚えていた。繊細で心配性。寝ている間に死んだと勘違いされ埋葬された人の噂話を聞いて以来、寝る時には「死んでいません」というメモを枕元に貼ったとも伝えられる。困窮を極め、評価されず、孤独な日々を過ごしたアンデルセン。しかし、彼は「わたしの生涯は、波乱に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しいメルヘンである」と語っている。彼は、不幸せに思える出来事を幸せに変換して物事を受け取る力と、どんな体験をもそれを生かして物語を創作し、童話を紡ぎ出すふしぎな力を神から与えられていた。彼の自伝を読むと、神への信仰が与えられていたことがわかる。それは母親の影響が大きかったのであろう。アンデルセンは「私の母に」という手紙を残している。「幼子のたよりない身を、あなたは母の身に抱いて、私の唇に「神さま」とつぶやくことを教えてくれました。・・・お母さん、私のすべての幸運は、ひとえにあなたのお陰なのです。・・・あなたが息子のために熱心に祈ってくださったため、善き主はその敬虔な祈りをきかれたのです!」アンデルセンの母は文盲で私生児であったという。北欧の地で洗濯婦として働き、晩年はアルコール中毒に・・。凍てつく寒さの中、酒で身体を温めざるを得なかったのだろう。しかし彼女は偉大な遺産を息子に残した。信仰と祈りという最高の宝を。(2023.5.14母の日)

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。...

天候が周期的に変動するように世の中も変わる。平和な時代がいつまで続くだろう?と将来に懸念を募らせるような雲行きのあやしさ、不安の煽りを受けると落ち着くことが難しい。聖書が記され読まれた1世紀後半から3世紀初頭は、平穏無事ではなく「落ち着いていられない」混乱と迫害の時代を繰り返した。そのような中で信徒は常に「祈り」に招かれた。良い日にも、最悪と思えるような時も、われらが心を向けるべきところは主イエス・キリストの信仰、希望、愛である。これらはいつまでも持続し、変わることがない(Ⅰコリ13:13)。人生の暴風雨、季節はずれの異常気象のような出来事に翻弄されようとも、神は常にわれらと共におられる。祈りは、共におられる神を信じて心にあるままを打ち明け、対話することである。そこでは取り繕うことも、恐れる必要もなく、いつもそのままで受け止められている自分に気付かされる。祈りを通してのみ、対立や争いのない落ち着きが与えられ、十分な恵みと平安のうちに今なすべき物事に専心できるのである。「願いと祈りと執りなしと感謝とをすべての人のためにささげなさい。王たちやすべての高官たちのためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活をするためです」(Ⅰテモテ2:1-3) 2023.4.30(日)

季節は晩春となり、新緑の中に竹林だけが黄色に枯れているのが目立つ。竹はこの時期に黄葉し、落葉していく。枯れた竹は、新緑の眩しさの陰にかくれて身を恥じているのだろうか?かつての力が衰え、姿を変えていく親竹は、芽生えて伸びる新しい命に養分を与え、今が旬の筍を力強く育てている。自然は常にありのままで「恥」がない。枯れても新しい命につながっている。第二次世界大戦の危機を生き延びたドイツの神学者イェルク・ツィンクの「わたしは喜んで歳をとりたい」(真壁五郎訳:こぐま社2018)という詩は、弱さや老いを恥とすることはなく、絶望することは決してないことに気付かせてくれる。「福音を恥としない」と書いたパウロ。「福音」という言葉は当時、戦勝報告の使信であったが、キリストの福音は、真逆の「敗北」や「弱さ」、受け入れ難い経験と隣り合わせである。主イエスは、世の中の価値観からすれば十字架刑によって敗北し、みっともない恥さらしの弱い姿で死なれた。しかしそれは、「復活」という真の勝利の命につながっていたのだ。パウロ自身、かつては弱さを恥としたが、「力は弱さの中で十分に発揮される」という逆説に目覚め、「わたしは喜んで弱さを誇ろう」(Ⅱコリント12:9)と弱さ自体にある価値を見出した。『われ「老い」「病」「敗北」「過去」「弱さ」を恥とせず・・・』。われらが最も力を発揮できるのは、無力を受け容れ、こだわりや囚われの気持ちから解放され、自分自身とのゆるやかな信頼を取り戻すことができたときだ。そこに圧倒的な神の恵みの養分が供給され、存在自体が輝いていく。信•望•愛のもと、どのような命もありのまま生かされていく。(2023.4.23)

Spring(春)の語源は古い英語で「光が見え始める」という意味があるそうだ。列車が大きなカーブに差し掛かる時、車窓からは各車両が弧を描きながら先頭に連なっている光景が見え始める。まっすぐに走っている時は見えなかった風景だ。「冬」が去り、「春」が到来した。われらの向かう先に見え始める希望を見出したい。「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる」という。使徒パウロは、律法に精通していただけではなく、ソクラテスをはじめギリシア哲学の知識も深かった事だろう。しかし彼は、自己実現をしながらも、低き視座に立ち、弱さに寄り添って共に生きようとする態度を伝えている。ここに「よく生きる」姿が見えて来るようだ。ただ生きるとき、われらは自分しか見えない。よく生きるとき、われらは自分とは異なる立場や価値観を持つ人と出会いながらも、皆、同じ希望に連なる車両に乗っていることを知らされる。復活の主イエスはわれらに先立ち、よく生きるために信・望・愛に招く。主イエスに連なっている時、われらは常に「春」のような光を見出し、そこで新たな恵みが芽吹くのだ。(2023.4.16)

今話題のチャットGPT(対話型自動応答ソフト)を利用して「イエス・キリストは本当に復活したのか?」と入力すると即座に応答があった。「はい、本当に復活しました。イエス・キリストは、死者の中から三日後に復活し、聖書に記された約束を果たしました・・・」数年前迄SiriなどのAI(人工知能)では、「宗教的な質問はよくわかりません」との自動応答だっただけに、驚異的な進歩に目を見張る。Q:「イエス・キリストの復活を信じると人間の生活はどのようになるか?」A:「イエス・キリストの復活を信じる事で、人間の生活は、希望と勇気を持つ事ができるようになります」Q:「イエス・キリストの復活を信じないと人間の生活はどのようになるか?」A:「人間の生活は、イエス・キリストの復活を信じない場合、悲しみや不安、希望のなさなど、様々な影響を受けることになります」・・・脱帽である。もはや牧師いらず!?最終的には人間による修正や判断が必要だとしても、AIは世界中の知識や情報を集約し、日々学習しつつ進化を遂げている。人間はどうだろう?AIは人間の意に服し、罪を犯さない。それを操る人間が罪を犯す。人間の罪とは創造主である神に従わない生き方で的外れを意味する。世の中にある不幸や悲しみは突き詰めると人間の罪がもたらしていると言わざるを得ない。今年度から私たちの教会で主の晩餐式が復活する。キリストが私たちの罪のため十字架で死なれた事を覚え、よみがえって私たちを罪から救うため今も共におられることを信じ、神の愛を自分のうちに確かめよう。完全な愛が統治する神の御国を待ち望みつつ「マ・ラナタ(主よ,来てください)」(2023.4.9)

新型コロナ感染症により対面での活動が制限されて丸3年。マスクに遮られて直接お互いの顔を見合わせる機会が減少していた。今春卒業を迎えた中学・高校生にとっては卒業アルバムを見て初めて同窓生の素顔を知った人もいる。欧米人は一般的にマスク着用を好まないという。互いに口元の表情で相手とのコミュニケーションを取ることが多いからだ。一方、東アジア系は目元で相手の感情を読み取ったりするので、サングラスなど目元を隠す人を怪しんだり不信感を抱く傾向にある。人は互いに顔と顔を合わせて素顔に触れることで相手を知り、通じ合う手掛かりを得ていると言える。Ⅰコリント13章には「愛の賛歌」が綴られる。もし愛に素顔があるとすれば、どれだけ愛の実体を知り得るだろう。その表情は覆われ秘められており、われらはその一部しか知り得ない。しかし、遮るものが取り除かれて顔と顔を合わせるようにはっきりと知る時が来るという。その時、われらは神の御顔(素顔)が慈愛そのものである事をはっきりと知る。神は愛であり、完全な愛は恐れを締め出す(Ⅰヨハネ4:18)。われらが信じた先で待ち受けている希望は、不信感や疑念、不安の一切が退いて永遠に存続する神の愛との出会いである。教会暦は受難週に入った。キリストの十字架にあらわされた愛は、今も一人ひとりその素顔のまま、ありのままの姿で神に愛されている事を伝えている。(2023.4.2)