2023年度主題「顔と顔を合わせて〜信仰・希望・愛を抱きつつ」
2019年12月4日。中村哲さんが武装集団の凶弾に倒れて4年。彼は、戦乱の続くアフガニスタンの地で医療支援に尽力し、砂漠のように乾いて荒れていた大地に緑をよみがえらせ、65万人もの人々の生活や命を救った。「現地の人々との良い信頼関係があることが、武器よりも何よりも一番大切だ」と語っていた中村さんは、キリスト教徒でありながらイスラム圏において異なる宗教の人々と信頼関係を築き、現地の人たちと最後まで生活を共にされた。自分の信仰に確信を持つことと、他宗教の信仰をもつ人に寛容であることは矛盾しない。どのような宗教や文化の違いがあったとしても、天の下には同じ命があり、人は愛するに十分である。そして真心は信じるに十分なのだ。どのような違いや背景があったとしても、相手が事実としている神性さを侵すことはできない。人は、偽りのない愛と真心に触れる時に信頼関係が深まり、絆が結ばれていく。彼は異文化・異民族の人々と顔と顔を合わせながら、共存共生の平和を創り出す希望を導いた一人である。待降誕節(アドヴェント)に入った。すべての民に対する救い主として来られた平和の君主イエスを迎えよう。(2023.11.26(日)
「謎かけ」を一つ。「中華料理」とかけて、「神が美味しいと言う食べ物」と解く。その心は?「焼売」です。「主(シュ)、ウマイ!」・・・。「謎かけ」は、「その心」を問うことで、真意が伝えられる。主イエスは自らを「命のパン」と語り、象徴的な表現で「永遠の命の言葉」を語った。その真意は、このお方がわれらの心の深いところで必要とする霊的な飢えや渇きを満たす存在であり、永遠の命の源であることを意味している。主イエスの真意を理解しようとしなかった弟子たちが離脱して行く中、主イエスが選ばれた十二人の弟子は「誰のもとにとどまるべきかを」を問われる。ここでの主イエスは弟子の一人の裏切りに対しての「悪魔」発言は文字通りに受け取れば辛辣だ。しかし主イエスの真意は、その生涯での文脈を通して明らかにされる。神と共に歩まず、神に敵対し、誹謗中傷するような存在となったとしても、選んだ者を受け入れ続け、愛し続け、ご自身のもとにとどまるように招き続けることを諦めない姿が主イエスにある。「永遠」をひっくり返せば「今」である。今、あなたは神の変わらぬ愛の中で生かされている。その愛に気付き、神の言葉に生かされて歩む命、それが永遠の命である。一時的ではなく、永遠に価値を失わない生きる命の糧がここにある。(2023.11.19)
人々を助け、愛と優しさにあふれた主イエスのもとには大勢が集まっていた。主イエスは目を上げ、群衆の食べ物を案じられる。弟子の一人が、子どもが持っていた大麦のパンとおかず(魚二匹)を見つける。主イエスはそれを感謝し、人々に分かち合うように指示される。すると分かち合われたわずかな食べ物が不思議と増えて人々は満腹した。少ないものでも、分かち合うことによってみんなが満足できる。利己的ではなく隣人と分かち合う生き方、思いやりや愛は、どんなにわずかで小さくとも、大きな奇跡を生み出した話だ。▶️第二次世界大戦中、ユダヤ人狩りが始まる中、アンネとその家族に隠れ家を提供し、食料を支援し続けたのはミープ・ヒース(Miep Gies1909-2010)であった。彼女が住まいや食事を分かち合わなければ、アンネは日記を書き続けることはできなかった。戦後、「アンネの日記」は世界70の言語に訳され、戦争と差別による苦しみを世界中に広く伝え、今も平和への願いを増やしている。晩年のヒースさんは言う。「私はヒーローと呼ばれるのが好きではありません。なぜなら、人を助けるために特別でなければならないと考える人はいないはずだからです。普通の秘書や主婦、10代の若者でも。暗い部屋に小さな明かりを灯すことができるのです。」暗く思える時代にあっても希望に満ち、喜びが増やされるよう、小さくとも平和を創り出す奉仕を主にささげよう。(2023.11.12(日)
現代社会では、人々は多くの約束や契約を交わす。しかし、これらは時として破られ、取り消される事がある。保険やスマホなど新しいガジェットや新プランが登場するたびに契約を見直したり、契約が変わる度に「同意」ボタンを押さなければ無効になる事もある。一方、神の選びや契約というのは。コロコロと変わる契約の世界に巻き込むモバイルプランのような類ではない。神が一度約束したならば、どのような状況にあろうとも変わらず、取り消されることがないのである。神は信仰の父アブラハムの選びに始まり、古代イスラエルとその子孫に対し恵みの契約を結ばれた。今や、キリストにおいて世界中の人々を救いに招いておられる。福音によれば、イエス・キリストの十字架によって人間の罪が赦され、神との和解が成立した。この神の救いの契約は、人間の過失や罪によって取り消されることのない恵みの贈り物となったのである。われらは不完全で過ちを繰り返す脆弱な存在であるにもかかわらず、神は誠実に関わり、その恵みを永遠に保ち続けてくださる。神の前では「この人間は除外」という削除やキャンセルボタンが存在しない。たとえ神に敵対したり、約束を破ったりする者でも受け入れ、愛し続けられる。この恵みを通じて、われらは争いや誤解を克服し、他者に対して愛と赦しを示す力を得る希望を見出す。キリストにおいてはユダヤ人もパレスチナ人もわれらも分け隔てはなく、神の愛の対象でしかない。全ての人々が取り消されない神の恵みの下で、敵とも共存する平和を創り出された主イエス・キリストに倣う隣人への愛を実践するよう招かれているのだ。(2023.11.5)
「雀(スズメ)」は小さな存在でその寿命は約3年と短い。当時のユダヤでも一羽ではなくセットで売られるほど安価で、宗教的価値すらなかった。しかし主イエスは、その一羽さえも神がその命を大切に慈しんでおられることを告げられる。「父なしには、地に落ちることはない」(岩波訳)とあるのは、父、すなわち創造主である神は、雀が人知れず地に落ちて一生を閉じる時でさえ、その一羽に伴われている事を示唆している。われらは、どんな小さな存在であっても神の愛のもとに生かされている。主イエスは、小さく弱くされた者に価値をおき、自ら低くなって社会的に疎外された者と共に生き、最期は十字架にかけられて死なれた。その生涯によって、すべて無力な者、希望を奪われた者、見捨てられた者、絶望と孤独のうちに命を奪われた者たちに伴われたのである。どんなに辛い時、絶望する時、命が尽きる死の時にあっても、主イエスが一人ひとりの命に伴われる。われらは一羽の雀さえ慈しみを注がれる神の愛の受け手として救いに招かれている。主イエスわれらに先立ち、復活の命を示して永遠の希望へと招き、今日も「恐るな。わたしはあなたと共にいる」と語られる。(2023.10.29)
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ」は、作詞した三木露風が現在から過去の幼い頃を思い浮かべている構成だ。5歳で母親と引き離され、おんぶして可愛がってくれた家政婦の姐やとも音信が途絶えている。夕暮れの黄昏時、ポツンと一人取り残される自分と赤とんぼの存在が懐かしさと寂しさを醸し出している。この詩を発表した翌年、露風はカトリックの洗礼を受けている。「とんぼ」は上から見ると十字架のような形をしている。もしかすると4番にある「とまっているよ竿の先」は、十字架を通して示された神の愛、自分と共におられたキリストのうちに真の安らぎを見出し、以前の寂しさとは質の異なる「新しい目」で自分の人生を捉え直したのかもしれない・・。「人は新たに生まれなければならない」と言われたニコデモは、当初イエスの言葉を理解できなかったが、7章ではイエスを弁護する立場、19章ではリスクを恐れず、大胆に十字架で死なれたイエスの遺体を引き取った人物として伝えられる。人がイエスを救い主と信じるまでには様々なプロセスがあるのだが、信じる者にとっての人生は、同じ経験も新しい視点で振り返ることができ、過去も現在も未来も一本の竿のように繋がって落ち着き、憂いや嘆きに囲まれた夕暮れ時さえもその先に恵みの光を見出す。(2023.10.22)
「永遠を思う心」は人間にのみ与えられている。動物は死後のことや永遠を思うことはない。人間だけが宗教や目に見えないものを信じ、尊ぶことができる。われらはすでに主のもとに召された教会の皆さまの在りし日の姿を偲びつつ、その信仰の歩みを思い起こす。同時に一人ひとりに注がれていた神の恵みと愛を信じて永遠を思う。主イエス・キリストはわれらの永遠を思う心に復活という希望を与えられた。その時われらも主と顔と顔を合わせ、いつまでも存続する愛のもとで歓喜する。もはや死はなく、嘆きも労苦も病も過ぎ去り、神がわれらと共にいて涙をことごとく拭ってくださる永遠の住まいが用意されていると信じるからだ。(2023.10.15)
「神は存在するのか?」という問い。質問者の「神」はどのような神かを問わずにはいられない。わが国は神道による「八百万の神」という古来の神観があり、森羅万象に「カミ」が宿るというアミニズムの影響下にあるからだ。聖書が示す神は、多神教に対して唯一神と呼ばれるが、「一」という数字より、英語でいう「オールマイティー」が近いかもしれない。それは万物の創造的主にして、世にあるすべての存在に対して責任を担われるお方、存在の根拠を他に転嫁しない全能者である。本日の記事では当時エジプトの奴隷として人権や自由を奪われ、うめき苦しんでいた人々の叫びを聞き、救い出そうとされる神の人格的な意志が伝えられる。この神は現象でもなく、高みの見物者でもない。人々の苦しみと痛みを知り、その叫びを聞いて働く神である。この神の名を聞かれたら何と答えるべきか?と問うモーセに神が答えられる。聖書協会共同訳では「私はいる、という者である」と訳されており、「神はわれらと共にいます」ということが強調され新鮮に響いてくる。聖書は、神と人間との歩みにおける出会いの物語だ。そのお方は、「私は(あなたと共に)いる」という名でご自身を伝えられる。いまだかつて神を見たものはいない。しかし、神の言葉である主イエス・キリストによってわれらは神というお方を知る。このお方は神の身分でありながら低みへと降られ、人々に仕えるしもべのように歩まれた。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くお方。その名は「インマヌエル(神は我らと共にいる)と呼ばれる。死より復活し、主は今も生きて語られる「恐れるな。私が共にいる」と。(2023.10.8)
われらはキリストによって生きるように招かれている。「〜よる」とは、そこに根拠や理由が生じていることだ。使徒パウロは生きる根拠をキリストにおいた。並外れた苦難の連続を生きたパウロの生涯であるが。実際、彼はどんな困難も、辛さも苦にせず、ひるむことなく、前に進んで行けた人ではない。嘘つき呼ばわりされ、どこの馬の骨かと軽んじられ、災難や事故、病に悶えつつ、悲嘆に暮れ、窮乏することもしばしばであった。キリストのために投獄され、拷問によって死戦を彷徨ったことも幾度もあった。それでも生きる理由は何か?「なぜなら、キリストの愛が自分に強く迫っているから」と彼はいう。キリストの愛にしっかりとつかまえられている恵みが、自分のために(自分によって)生きるという目的を上回ったのだ。人生は何によって確かなものとなるだろうか。「キリストによる」という意味は、自分次第から「キリスト次第」という恵みの視点を見出す。それは船が錨(アンカー)を下ろすようなものだ。錨の爪がしっかりと海底に固定されるなら、荒波においても一定の場所にとどまり、過酷な風浪に耐えて流されずに目的に向かう頼みの綱となる。生きる道で忍耐や辛さは避けられないが、どのような人生の荒波や試練にあっても、われらはしっかりとキリストの愛に固定されている。だからこそ、すべてを乗り越える希望を見出すのだ。今日もキリストによって生きることができる。(2023.10.1)
宗教改革においても掲げられた「信仰による義」。救いは、善行や修行など人間側の努力によるのではなく、「イエス=キリストへの信仰による」という。「信仰」と訳されたギリシア原語「ピスティス」は、「真実」「信実」「誠実さ」とも訳され、関係性を築く上で重要な「信頼性」を示す。かつて背信を続ける民に神は語られた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31: 3) また、神は「不従順で、反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ローマ10:21)とも言われる。弟子たちは真実を否んで主イエスを裏切ってしまった。しかし、キリストは手を引くことなく変わらずに関係を構築し続けた。弟子たちが立ち直れたのは、そのようなキリストの誠実さのゆえではなかったか。神に義と認められるのは、人間側の踏ん張りや強さによるのではない。ただ、キリストの誠実さが人間を救う。救いへの要件は、優れた組織形態や教義、宗派が決定的要因になるのではなく、キリストの誠実さにかかっている。主イエスは決して裏切らない。このお方に対する信頼が主イエス=キリストへの信仰となる。(2023.9.10)